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  3. 「libre」田熊一衛氏インタビュー
田熊 一衛 氏 田熊 一衛 氏 田熊 一衛 氏
田熊 一衛 氏 田熊 一衛 氏 田熊 一衛 氏

パリ凱旋帰国後に挑戦する
新しいシェフの形

【Libre(リーブル)】 田熊 一衛 フレンチ

パリの名だたる三ツ星レストランのスーシェフが日本に帰国し、今年の6月【Libre】をオープンしたと話題になったのは、ついこの間のこと。その後、時を空けずして福岡・天神にパティスリーを開店。来年には麻布十番にガストロノミーレストランを、さらに4月、9月と自身が監修する店が続々オープン予定。料理人として、経営者として飛ぶ鳥を落とす勢いで手腕を発揮する、田熊シェフのヨコガオとは

Interview

渡仏のチャンスは、ある日突然やってきた

帆立にトリュフをはさみ、かつおのだしをふくませたカブ、ベルべンヌのエスプーマ、かつおだしのジュレで構成された前菜。色彩も美しい

──パリには10年弱いらっしゃいましたね。どうしてパリで働こうと思ったのですか?

【レザン・ファン・ギャテ】でシェフをやっていたときに、ドミニク・ブシェ氏が店に食べにきて、「パリに行かないか」と誘ってくれたんです。長く勤めていた会社に、次を決めないまま、ちょうど“辞めます”と言ったばかりのタイミングでした。

──え! それはまたすごいタイミングですね。

 僕、本当に運だけはいいんです。ワーキングホリデーという形でしたので、ドミニクのパリ本店で1年働かせてもらいました。その後帰ろうかな、と思ったのですが、ドミニクに「もう少し力を試してから帰ったら」と言われたこともあり、ドミニクの紹介でフランス料理協会会長のビストロのシェフをやらせていただきました。パリで働くうちにほかの料理の世界も見たくなって、その後北欧に行きました。当時、【noma】をはじめとしたニュー・ノルディックキュイジーヌブームの時代だったんですね。ヘルシンキの【オロ】やストックホルムの【フランツェン】、コペンハーゲンのレストランなどを巡りました。北欧は技術的なものだったり、食材の組み合わせ方を学びました。何よりも“自然”を最大限に生かす感性が自分にフィットしましたね。僕の母親はベジタリアンで、高校で寮に入るまで新鮮な野菜ばかり食べていましたから、そんな幼少の原体験もリンクしたのかもしれません。

1981年生まれの37歳。昔は野球選手を目指していたそう

──高校に入るまで野菜だけ食べていたんですか!?

 母親がスーパーベジタリアンだったので、野菜、グルテンバーグ、玄米、果物ばっかり食べていました。週に1回家族で外食していたのですが、そういうときはたまに魚を食べたりしてたかな。僕の肉デビューは高校で寮生活をしたときなんですよ。マクドナルドの味も高校生で知りました(笑)。

──初めて肉を食べたとき、どう思いましたか?

 いやあ、おいしいと思いましたね。白米のうまさもそのときはじめて知って、幸せを感じました。もともと食べることは好きでしたし。家では母親に突然「タルトつくって」と言われてつくらされていたので、料理も子供のころからよくやってました(笑)。野菜にはこだわっていた家でしたから、今でも野菜の味は本当に敏感ですよ。高校になっていろんな食材を知って、ますます料理や食に興味を持ったかな。そして飲食店でバイトしたりして、料理の面白さに目覚めてそのまま料理人になりました。

アミューズのいわしのリエット。ケーキのデコレーションの型でつくったポテトと黒ニンニクのリーフにはさんで

パリの三ツ星レストランとは、“文化をつくる”場所

──そうした原体験が北欧の“ナチュール”な料理に共鳴した、というのがまたすごい。その後またパリに戻られましたね。

 1年さまざまな場所を渡り歩きながら、いろいろと体験したのですが非常に勉強になりました。パリに戻ったら、【ダヴィット・トゥタン】に誘われて、そこで働き、その後ドミニクの紹介でマダムロワゾーに出会って、【ベルナール・ロワゾー】でシェフを務めさせていただきました。2年務めたところで、日本に帰る前にパリの三ツ星レストランを見てみたい、働いてみたい、と思ってマダムロワゾーの紹介で【ル・サンク】に入ったんです。行ってみたらスーシェフのポジションでした。

──パリのグランメゾン、さらに三ツ星のスーシェフとは重責ですね。

 正直言うと、パリにいた通算10年の間で一番つらい時代だったかもしれません。スーシェフというのは、通常店に入って短くても5.6年、スタージュから入って8年くらいかかるものなんです。それが、突然やってきた日本人がスーシェフのポジションについたわけですよ。必要な調理器具の場所、厨房のシステムを聞いても誰も教えてくれない。完全な無視、ってさすがに凹みますよね。そういう状況だけれど、厨房をチームとしてまとめていかなくてはいけない。シェフからは試作を命じられていくつもつくるけれど、1カ月OKがでないことなんてザラ。この時期に逆境での働き方、コミュニケーションの仕方を学びました。また、三ツ星レストランというのは、“自分たちで文化をつくるところ”なんだということを身に染みて感じましたし、ゼロを1にする難しさと楽しさを経験しました。

じゃがいものケースに白子のポワレ、コーヒーのムースとコーヒーのチュイルを添えて。コーヒーの苦みと香りがアクセント

──その経験を経て、日本に戻ってきた。パリでそのままやろうとは思っていなかったんですか?

 タイミングとしては、“35歳で店をやる”、と決めていたため、ちょうど自分の店をどこにオープンさせようか考えていた時期でした。もちろん、パリで出すということも考えました。けれど、“新しい価値観”をつくるなら、日本でやりたい。素直にそう思いました。パリで勝負する日本人のシェフはいまや珍しくないですし、SNSなどもある。今は世界中どこで出しても、同じだと思ったんです。そう考えたときに、一番自分の言語で細やかにイメージを伝えられる日本がいいなと。日本で日本にないものをつくる自信はありました。そこで自分らしさを貫ければ世界にも通じると確信しました。店のデザインは絶対にDAIKEI MILLSの中村圭佑さんとやりたい、と思っていましたし、チームができていくにつれ、パリではできない日本だからこその世界観ができるなと実感しています。

──そうして、日本でオープンしたレストランは、昼はパティスリー、夜はレストランというスタイルですね。

そうですね。むしろ、パティスリーがメインで、夜空いているからレストランしようか、というイメージです。デザートって料理と比べると、より“人が幸せになれる”気がしませんか? それに甘い要素があるものって、クリエーションの幅が広がるんですよ。初めはパリブレスト専門店をやろうとしていたんです。パリブレストって、デザインも味わいも幅広くいろんなことができるのに、専門店がないでしょ? 自分たちだけの新しいクリエーション、デザインをやりたかったんです。

スペシャリテのうずら。中抜きしたうずらに、海老と豚ひき肉を詰めて焼き上げた。ソースはうずらのジュをベースに

──パティシエをご担当されたことがなかったのに、クリエーションの表現方法としてまず、スイーツからというのはやっぱり面白い。白金の次に、福岡天神にもスイーツのお店を出店されましたね。

 料理人の感覚で楽しくつくって、一口食べたらいろんな発見があるスイーツってあんまりない気がするんです。例えば、来年の1月2日から天神のメニューが変わるんですが、リオレをたこやき器で焼いて、その中にチョコレートムースを詰めたものなどを出そうと思っています。キャラメルも何度も試作をして、温度を微妙に変えながら口どけにこだわってつくりました。パリの【ル・サンク】時代に考案した果物丸ごとをスイーツにした『フリュレ』も、パリの三ツ星ならではの技術を気軽に味わってもらいたい、そんな思いがありますね。【ル・サンク】のシェフ、クリスチャン・ル=スケール氏は「三ツ星レストランとは、着飾ったものではなく、新しい文化を生み出す場所だ」と常日頃言っていました。枠にとらわれず新しい表現方法、クリエーションを模索していくなかで、なにか人を楽しませる、新しいものがつくれたらなと。

昼はスイーツを販売、イートインも可能。右上段は田熊シェフの代表作『フリュレ』。フルーツのようにみえるが、周りは薄いホワイトチョコレートでコーティングされている。下はさまざまなフレーバーの『パリブレスト』

──料理におけるクリエーションはどう考えていますか?

 こころがけていることは、皿の上の素材は3種類まで。3つの旨みを重ねていく、というイメージです。そうして、新しい料理をつくる。たとえばスペシャリテのうずら。まずうずらという食材は、可能性を秘めていると感じたんです。そのうずらの皮を香ばしく焼いた旨み、中につめた蒸された豚肉の旨み、そして海老が持つ旨み、違う旨みを重ねて一つの料理として味わってもらいたいと思いました。ポテトと白子のポワレは、この食材の組み合わせ自体はクラシックかもしれない。けれどここにコーヒーを合わせることでまるで別世界の料理になります。自分の中に“酸味の旨み表”みたいなものがあるのですが、ねっとりした白子にコーヒーの軽い酸味を合わせることでよりおいしさを引き出すことができると考えました。帆立にトリュフを挟んで、ベルべンヌのエスプーマ、ガストロパックでかつおだしをしみこませたカブを添えたものは、最初シャンパンとかつおだしを一緒にあじわえたらな、という発想から生まれたもの。ベルべンヌの香りがかつおだしのジュレに寄り添って、ジュレをよりおいしくし、帆立をひきたてる。

 僕は自分が本質を理解したおいしさであれば、どんな食材でも使います。野菜は母親の会社や、九州の地元からとっているし、魚も肉も産直のものが多いかな。この『パリブレスト』につかっている鹿児島・宝島産のバナナ、相当おいしいですよ。

考えて、考えて、つくって、また考える

──来年は麻布十番にレストランを、4月には福岡・薬院、天神でそれぞれ1軒、さらに9月には心斎橋に店をオープンされると聞きました。すごい早い展開ですね。

 2019年に麻布十番でオープン予定の【プラーレ】は、一歩店内に入ったら全神経が震えるような店にしたいんです。スペクタクルなお店。ガストロノミーで、客単価ドリンク込みで2万円程度で考えています。調理器具もオリジナルでいろいろつくっているんですよ。これ、すごい店になるんで期待していてください(笑)。4月の薬院は、昼はデザートのコースとアラカルト、夜は無国籍フレンチの店にしようと思っています。地域に密着した店にしたいから、博多の屋台文化、B級グルメ文化から発想して無国籍フレンチがいいかなと。天神はまだこれから決めます。9月は大丸の中の店ですが、フレンチからあげの店になる予定です。

細部までこだわってつくりあげた店内は、信頼するデザイナー、中村圭祐さんと考えた

──スピード感もすごいけれど、内容のバリエーションもすごいですね。そうしたお仕事はご自身のもっている同じチームで全部請け負っているのですか?

 今、僕と主に経営面を見てくれるもう一人で会社をやっています。お話をいただいたものは、二人で検討し、二人がいいね、となったものだけを進めています。それぞれのプロジェクトは、それぞれのチームを組んでいるのですべて違うチームです。もちろん重なっているメンバーもいますが。外食産業ってレストランだけではないですよね。例えば、僕は店をやる以外にも、今【ユーゴ・デノワイエ】など他店のコンサルタントもやっていますし、グッチなどの海外ブランドのケータリングも担当します。フランスは料理人の地位が高いですが、日本はそうでない。そこをもっともっとあげていきたい。もう料理人が自分の店だけやっていればいい時代では正直ないと思うんです。

──パリから帰国して一年足らずで、それだけのチームが組めるというのは驚きのスピードだと思います。

 僕の性格上、仕事をしていくうえでどうしても譲れない部分があるんです。だから、気の合う人としかチームが組めない。ゆるぎない信念と、クリエーション魂を持ち続けていると、今一緒にやっているチームから広がっていくことが大きいです。それから、新しい場所ができたら、僕は自分が居る場所を次の世代にまかせます。【プラーレ】ができたら僕はシェフとして移るので、【リーブル】は若手に渡します。いったん渡したら、彼が好きにして自由に盛り上がればいいと思う。そうして、いろんな若手が輩出されて【リーブル】出身のシェフなら間違いないね、と世間に評価していただけるようになったら本当にうれしいです。

──それだけのスピードで進んで、“新しいもの”“クリエーション”をどうやって生んでいるんですか?

 どうやって、って改めて言われると難しいなあ。“旬のシェフにならない”っていうのがモットーです。「世界のベストレストラン50」のシェフに入れたとしたら、6位から10位にずっといる、みたいなイメージ(笑)。自分でも不安になるとき、ありますよ。でも、やっぱり考え続ける、作り続ける、自分の意識を表現者として発表する、クリエーションするところまで持っていき続けるということですかね。今、大学の教授と“科学の料理”を研究しています。科学の力とクリエーションの発想力で新しい料理をつくりたいんです。チームをつくるというのも、一人じゃ無理だから。誰も挑戦しないから価値があると思うんです。

 たぶん、止まったら、死ぬってどこかで思っているのかもしれません(笑)。

撮影/石井 宏明 取材・文/山路 美佐(ヒトサラ編集部) 2018.11.28取材

シェフの裏ワザ

「さまざまな旨みを引き出すガストロパック」

「この機械で圧をかけることで旨みを極限まで出すことができるんです」と田熊シェフ。かつおだしもこれでつくれば、驚くほど濃厚なだしがとれるという。さらに、そのだしと野菜を一緒に入れて圧をかければ、その野菜の芯までたっぷりとだしをふくませることができるのだとか。「パリブレストのバナナにライムジュースをしみこませたりするのもこの機械です」。今、魚を丸ごと入れられるように、オリジナルのガストロパックをつくっているのだそう。

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