西麻布から徒歩1分の隠れ家【氣分】
西麻布の交差点そばの六本木通り沿いという抜群の立地に、知らなければ見過ごしてしまいそうなシルバーのプレートが目印だ
――【氣分】という店名にした理由は?
よく、その日の「気分」という意味だと勘違いされるのですが、そうではなくて、私はそれぞれの食材の中に「氣」、つまりエネルギーのようなものがあると思っています。それを預かって、お客さんに「分け」る。そんな意味でつけました。旧字体を使ったのは、米という文字が入っているのが気に入ったから。米食文化の日本への敬意を込めてつけました。
――西麻布の交差点から徒歩1分、とても便利な場所ですが、同時に隠れ家的な静かさもありますね。この場所を選んだのは?
西麻布は昔から有名なレストランがたくさんあるグルメの街ですし、大使館が近く、外国人も多い。そんなインターナショナルな雰囲気にも惹かれました。
――お店の中でこだわっているポイントは?
この奈良檜のカウンターです。私自身、お寿司が大好きなのと、自分が日本料理を学んできたので、そんな経歴にもマッチすると思いました。カウンターの後ろはすだれをイメージしたデザインになっているのですよ。完全に日本料理店、というイメージではなく、どこか西洋的でもあり、モダンなアレンジがされているのがいいですね。これまでの店はオープンキッチンではなかったので、私にとっても新しい感覚です。
全長4メートルの奈良檜のカウンター5席、テーブルは6〜8席。木目を活かし、家のようにくつろげる空間が広がっている
――ここで出す料理も日本とフランスの文化や技術を融合した料理ということですね。もう少し詳しく教えていただけますか?
日本に来て9年になります。もともと京都の【菊乃井本店】で学び、その後、銀座のフレンチ【エスキス】で仕事をして、それから【氣分】をオープンしました。フランス人ですが、菊乃井ではハモの骨切りや魚の神経締め、棒寿司をつくったりもしていたので、この【氣分】でも、例えば棒寿司をアレンジしたものを出したりしています。
――菊乃井ではどのようなことを学びましたか?
日本料理の細かい技術ですね。和食の包丁捌きや綺麗な使い方は素晴らしいものです。日本料理は切る文化だといいますが、目的別に全部違う種類の包丁があるのに驚きました。
――同時に、フランス料理の良さも取り入れているのですよね?
フランス料理の真髄はソース。一般的にソースというと、たぶんバターやクリームが多いイメージだと思いますが、【氣分】では、昆布だしなども活用して、油脂が少なくても味わい深いソースをつくっています。
「日本で働いていた叔父の存在や、子どもの頃から学んでいた柔道やアニメから、自然に日本に惹かれるようになりました」とユーゴシェフ
――どうしてシェフになろうと思ったのですか?
もともと活発な子どもで、柔道やラグビーなど、体を動かすのが大好きでした。小さい頃から食べるのも好きで、両親が日曜日にジゴ・ダニョー(仔羊のモモ肉のロースト)や、じゃが芋のサラダをつくるのを手伝っていました。よくつまみ食いしたりして。サラダのドレッシングをつくるのは、小さい頃から私の担当でした。12歳の時に学校の研修で料理を選び、少しずつ料理人の仕事に惹かれていきました。
――日本にはどんなふうに興味を持つようになったのですか?
子どもの頃、兄とよく『聖闘士星矢』を観たり、柔道を習っていたので、日本の文化には親しみがありました。叔父が日本で働いていて、クリスマスで帰省した時にわさびを持って帰ってきて、すりおろして、フランスのスズキで刺身をつくってくれました。それが生の魚を初めて食べた経験で、おいしくて感動したものです。また、15歳から故郷を出て、ティエリー・マルクス氏の店であるポイヤックの【シャトー・コルディアンバージュ】で2年間、アプランティ(見習い)として働きました。
この時から、フランスを出る24歳までずっと、ワーキングホリデーで来ている日本の料理人の方々と一緒でした。休みの日に日本人の料理人の方々と海に出かけて、日本の料理のことを教えてもらったりしました。また、ティエリーシェフも柔道や合気道をやっていて、日本文化に造詣が深かったのにも影響されました。日本人はいろいろなことに真剣に向き合うし、何よりも料理に対しての愛がある。遠くに見えても、フランスと日本の文化には、通じ合うものがあると思いました。
――そんな中、来日を決めたきっかけはなんだったのでしょうか?
もともと日本に行きたいと思って、情報収集をしていました。そんな時に、フランスの新聞で、菊乃井の村田吉弘大将が、日本料理アカデミーのフェローシップという取り組みで、京都市と連携して、外国人の料理人に、和食を勉強するための特別なビザがおりるような仕組みをつくった、というのを読んだのです。それに申請したところ、第一期生として、選んでもらうことができました。
日本の「切る」文化の多様さに惹かれるという。鱧の骨切りができるようになったのも、早朝から市場に行くなど、自ら積極的に学びに行ったおかげ
――【菊乃井本店】では2年間働くことになるわけですが、それまで日本に来たことはあったのですか?
なかったです。来日してみて、京都は古い神社がそこここにあり、文化の根付いた、特別な場所だと感じました。ここで日本の心を2年間しっかりと学ぼうと思ったのです。
――今、このインタビューも日本語で答えていただいていますが、もともと日本語を学んでいたのですか?
特に勉強はしていなかったので、最初の半年は「ありがとうございます」、「おはようございます」しか喋れませんでした。仕事を通して覚えたり、休みの日も居酒屋などに一人で出かけて、お店の人に積極的に話しかけたりして、机に向かっての勉強ではなく、話しながら覚えました。
―ーフランスのフランス料理店で9年間経験を積んでからの来日。日本料理店の厨房はフランスとは違って驚かれたのではないですか?
そうですね、フランス料理は、前菜や魚、肉とセクションが分かれていて、特に地方だと、キッチンの真ん中の大きなピアノ(焼き場)に大勢人がいて、それで厨房が回っている。それと違って、日本料理は火を使う煮方が一人しかいなくて、火入れが料理の中心ではないことに驚きました。
ハモと梅肉という日本料理の伝統的な組み合わせながら、梅干しは塩抜きして刻み、イタリアの「モスタルダ(果物のマスタードシロップ漬け)」に着想を得て、マスタードシードと三つ葉を加えてペースト状にし、フランスで伝統的に食べられている焼きナスのペーストとタヒニ(ゴマのペースト)を加え、レバノン風の「ババガヌーシュ」に仕立てている。まさに国境を超えたマリアージュが魅力的だ
――日本は「板前」というように、切る仕事が重要視される文化がありますものね。その中で、どんなことを一番学びましたか?
魚について一番学びました。日本では、フランスと違って多くの種類の魚を食べられることに驚きました。また、フランスでも活け締めが話題になっていたので、学びたいと、【菊乃井】の近くにある鮮魚店の【水口】さんで教わりました。
【菊乃井】のメインの鮮魚店で、寮の隣にあったので、早朝4時半、5時に市場に行って、【菊乃井】をはじめとする、京都の有名な和食屋さんのために魚を買い付けるのです。日本の活け締めは海外でも有名なので、興味を持ちました。特別な研修ビザは2年間だったので、この中で、吸収できることは全部吸収しようと思って、自分からお願いして、市場に連れて行ってもらい、活け締めのやり方を教わったのです。
京都で購入した「有次」の鱧の骨切り用の包丁は宝物の一つ。優吾(ユーゴ)の名が刻まれている
――また、村田さんから教わったことはなんでしょうか?
村田さんは素敵な人で、とても優しくて、「大丈夫か、今日も頑張れ」と、何かと気にかけてくれました。和食のシェフの中で、大将ほど外国の方のために、和食を広めようと活動している方はいないと思います。心の底から、和食が大好きでないとできないことです。料理を自分のためにやるのではなく、世界に広めるための「利他の心」の素晴らしさに感動しました。
フランス人としてのアイデンティティとの再会、【エスキス】での5年間
フランス・ラカン産のピジョンは中国料理の手法で油を回し掛けてからオーブンへ。軽やかで奥行きのあるコンソメのソースで
――【菊乃井本店】での充実した2年間のあと、【エスキス】に入ろうと思われたのはどうしてですか?
京都にいた時、友人の紹介で、家族で京都に遊びに来ていたリオネルシェフと一緒にハモ鍋をつくったのがきっかけです。その時に初めて会って、仲良くなりました。フランス人で、まだ若くて日本料理の修業をしているというところが珍しかったのもあると思うのですが、「興味があったらエスキスに来ないか」と声をかけられたのです。
――リオネルシェフの考え方で、ご自身と共通するものがあったということですか?
リオネルシェフは、日本にいるフランス人として、日本の食材を使ってフランス料理をつくっている。そのバランスが良くて、この料理を学びたいと思いました。それだけではなく、自分の気持ちが反映されていて、まるで、アーティストのような、リオネルシェフにしかできない料理をつくっている。私自身はアルティザン(職人)的なタイプだと思いますが、そのアート性にも興味を持ちました。
――リオネルシェフのところで一番驚いたことはなんですか?
料理を考える時に、なぜこの食材を使うのか、なぜこの組み合わせなのか、全部に意味があることに驚きました。また、南仏の漁港でもあるマルセイユ出身のリオネルシェフの料理は魚を多く使います。中でも、当時のヘッドシェフの村島輝樹さんは、毎朝、築地と豊洲に行って、魚を買い付けていました。品種にこだわらず、その時の良いものを買ってきて、料理をそれに合わせてゆく。そんな感覚も新鮮でした。毎日、一緒に市場に連れて行ってもらいました。日本人シェフでも、信頼を得るのが難しい市場の方々との人間関係ができたのは、村島さんのおかげですし、今も財産です。
愛用するアウトドアアイテムの保冷バッグを持って、毎朝豊洲市場へ。魚を選ぶことができる早朝に行くようにしている
――そうして最終的にはヘッドシェフになられましたね。市場もそうだと思うのですが、日本の社会に受け入れられるために頑張ったことはどんなことですか?
やはり言葉を話すことでしょうか。使いながら覚えた日本語なので、今でも敬語などは全然完璧ではないですけれど、やはり「これはなんですか?」と聞いたり、自分のことやつくる料理を説明しないと、自分のことをよくわかってもらうことはできません。
目指すのは、国境を超越した「ウルトラ・キュイジーヌ」
見事な包丁技で一番甘い部分を引き出したスミイカで、【エスキス】時代に出合った能登の高農園の加賀太きゅうり、黒ニンニクを包んだ
――今回、独立を決めたのはどうしてですか?
【エスキス】では5年間を過ごし、今年34歳になります。独立するにはいい年齢だと思いました。いろいろなシェフたちから学んだことを活かして、自分の力でやりたいことをやろうと思ったのです。
――中でも、リオネルシェフとは、日本の文化をフランス人として表現する、という共通点がありますね。そんな中、「自分らしさ」をどのように捉えますか?
やはり、日本料理の背景がある、ということが大きいと思います。例えば、リオネルシェフもお寿司が大好きですが、おそらくお店で出すことはないと思います。日本料理を学ぶ中で学んだ寿司や、市場に行って自分で行う魚の神経締めなどは、【氣分】らしいアイデンティティだと思います。また、オープンキッチンでお店が小さいので、コースの途中でもお客さんとコミュニケーションが取りやすかったり、料理しているところを見せられるのも、面白い部分かと思います。
フランス産のホワイトアスパラガスは、海の香りとクリーミーさを併せ持つたっぷりの紫ウニと、ウニが食べる昆布を食感と味のアクセントに加え、ヴァンジョーヌソースとともに
――ご自身の料理のスタイルを、日本にインスピレーションを受けた「ウルトラ・キュイジーヌ」と定義していますね。これには、どんな意味があるのでしょうか?
「ウルトラ・キュイジーヌ」とは、アメリカなどでよく使われる言葉ではあるのですが、和食やフレンチなど、料理のカテゴリーにこだわらず、世界にある多様な料理の技術の一番いい技術を使うというものです。例えば、ホワイトアスパラガスはフランスの野菜ですが、ソースは日本の昆布だしとフランスのジュラワインを使っています。塩レモンはイタリアの考えです。そんな風に、料理人が国境にとらわれず、自由に表現する料理。だしなら「和食だったら、ここまでしか使わない」というものがあっても、ウルトラ・キュイジーヌはそういった既成概念に縛られず、国籍を超えた料理ということができるでしょう。
――ここから、どんな夢を描いていますか?
オープンして2ヶ月経ちましたが、これからもっと良くするため、お客さんにいい時間を過ごしてもらえるようにしたいです。料理のレベルも、試作を重ね、もっと上げていきたいですね。もちろん、フランス人なので、ミシュランの星が取りたいというのは心の中にありますが、毎朝起きる時に、毎日【氣分】が満席で、一緒に働く仲間にここで働くのが幸せだと思ってもらえることが一番です。そのためには、いろいろな店に食べに行ったり、どんなふうに店を良くすればいいか、常に考えて、自分が頑張らないといけないと思っています。
――もともとの【氣分】の定義とは違いますが、来た方にはどんな「気分」を持って帰って欲しいと思っていますか?
初めて来たお客さんは、ちょっと暗い空間で、家みたい、という印象を持つのではないかと思います。最初は静かだったお客さんが、ちょっとアペリティフを飲んだりして、ここは家みたいだからゆっくりとくつろいで、自由に食事していい、と感じて欲しいですね。そして、私の家を訪れるように、また行きたい、と思って欲しいです。
撮影 / 今井 裕治 取材・文 / 仲山 今日子 2024.5.28