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  3. 「レストラン トエダ」戸枝 忠孝氏インタビュー – 世界の舞台で戦う、たった3卓のレストラン
戸枝 忠孝 氏戸枝 忠孝 氏戸枝 忠孝 氏
戸枝 忠孝 氏戸枝 忠孝 氏戸枝 忠孝 氏

たった3卓のレストラン、
コロナ禍での世界への挑戦

【Restaurant TOEDA】戸枝 忠孝フランス料理

窓の外に紅葉を望み、川のせせらぎが耳に心地よく響く。まさに、軽井沢の自然のただ中に佇む、静かな一軒家。この、たった3テーブルのフランス料理店【レストラン トエダ】が、料理界のオリンピック、「ボキューズ・ドール」に挑戦した。世界各国が、中には何億円単位の国家予算をつぎ込むなど、国の威信をかけて挑む中、コロナ禍もあり、日本ではスポンサー集めが難航。戸枝忠孝シェフはクラウドファンディングを募り、さらには自らがスポンサーとなり、自腹を切って参加。豊かな自然と情熱あふれる生産者に惚れ込んで開業した軽井沢での10年。そこまでしても「世界が注目する舞台で、この土地の魅力を表現したかった」。思いは、届いたのか。

Interview

心に映る、料理人としての原風景

2年前に増築した【レストラン トエダ】。左側のガレージ内にコンクール用の厨房をつくり、1年間、練習を行った

――9月に行われた「ボキューズ・ドール」、私も現地にお邪魔しましたが、非常に精密な技で、豊かな自然を表現されているのが印象的でした。自然との関わり、料理人としての原点は、どんな部分だったのでしょうか?

生まれたのは神奈川で、子ども時代を過ごしたのは鹿児島と滋賀。田舎だったので、田んぼの中を駆けまくっている、本当に普通の子どもでした。でも、その時から釣りが好きで、釣ってきた魚を見よう見まねで自分で捌いたりしていましたね。父がエンジニアだったので、技術職の仕事に就きたいと思っていて、将来を考えていた高校生の時に料理番組を見て、一からものができていく、料理というものに感動して。それが料理人の道を選んだ原点です。

――専門学校を卒業後、東京でしばらく働いてから、フランスに行かれたのですよね。

日本で働いていた時は体力的にも精神的にも、もう本当に辛かったんですが、フランスに渡ってからは毎日が楽しくて。フランスで修業したのは2年ちょっとだったのですが、その間が一番勉強したというか、一番料理に没頭できたと思いますし、料理人としての人格形成もそこでできたと思います。

明るい日差しが入り込む店内。「理想はあったけれど、一気に変えるのは難しくて」少しずつ買いためた思い入れの深い家具

――日本と違って楽しかったというのは、どんなところが違ったのですか。

本場の料理に触れられていること。そして、日本で働いていた時よりも食材と料理人との距離がとても近かったことですね。「こういうところで育ったものを、こうやってつくるんだ」とか、肉も一頭買いして捌いていたので「こうやって捌くんだ」とか。本当に知りたかったことが、全部ギュッと凝縮していたので、毎日楽しかったです。

――今回参加された「ボキューズ・ドール」との出会いも、フランスだった。

はい。フランスで最初に働いたお店の、スーシェフの方が「ボキューズ・ドール」のパンフレットを見せてくれて、そこで初めて知りました。20歳の時です。「日本も出てるんだぞ」と言われたのですが、まさか自分が出ることになるとは夢にも思わず、こういう大会に出る人はすごいな、と思っていました。

憧れの師、レジス・マルコン氏との出会い

料理はすべて一人で行う、忙しい毎日。「帰国後の自主隔離の期間中、生後4ヶ月の娘と、ゆっくりと遊べたのがうれしかった」

――「ボキューズ・ドール」がきっかけで、マルコン氏のことも知ったのですよね。

僕がフランスで働いていた当時、【オーベルジュ・エ・クロ・デ・シーム】はまだ二つ星だったのですが、レジス・マルコンさんが「ボキューズ・ドール」で優勝されて、注目を集めていました。その時にはすでに「キノコの魔術師」と呼ばれていて、街中ではなく、物凄い山の中でやっていると聞いて、是非ともそこで働きたい、と思いました。何通も手紙を出したり、直接お店に電話をしたり、マルコンさんと仲のいいシェフを通してお願いしたりもしたのですが、全部断られてしまいました。当時働いていたお店のシェフに、「次はどこの店に行くんだ」と聞かれ、「レジス・マルコンさんの所に行きたいけれど、まだ了解が取れていないから、どこで働くか分からない」と答えたら、「大丈夫、友達だから」とそのシェフがすぐに厨房から電話してくださって、働けることになりました。

――そして念願のマルコンさんのキッチン、実際に行かれて何か新しい発見はありましたか。

お料理は素晴らしいですし、マルコンさんといえばキノコ。そのキノコの種類の多さと、処理の仕方を学ばせていただきました。色々なシェフのもとで働いて、食材に対するアプローチの仕方が皆さんそれぞれ違うと感じていたのですが、特にマルコンさんは、食材に対する愛情が違う。キノコなら、キノコを採ってくる方やキノコが育つ森への深い敬意がある。何よりも、郷土をとても愛していて、その土地をいかにお皿の上で表現するかを日頃からずっと考えていらっしゃいました。それをそばで見ていて、「すごいな」と思っていました。僕は田舎で育ったので、若い時は都会に憧れる気持ちがあったのですが、マルコンさんが山奥で素晴らしいレストランをされているのを見て、「地方っていいな」と思いましたし、地方には人を惹きつけるものがたくさんある、ということを教えていただきました。

あとは環境です。200人ぐらいしか住んでいない小さな村なのに、80席以上が毎日満席になっていたんです。僕も日本に帰ったら、こういうお店をやりたいなと憧れました。

軽井沢から、日本を背負う、ということ

美意識が生きた緻密な料理。「ここでできる料理を追求すれば、自分らしさになる」今、改めて自らのスタイルと向き合う

――フランス修行を終えて、縁あって軽井沢の地で働くことになられたわけですけれども、軽井沢の魅力をどういう風に感じられましたか。

最初に来た時に、「空気感がフランスだな」と感じたんです。そして、実際に働きだすと、食材の豊富さに感動しました。野菜もジビエも豊富ですし、川魚もあるし、海のものを使わなくても十分、素晴らしい土地だなと思いました。

――そういった意味で、マルコンさんの環境と重なるところもありましたか?

ありました。あの時に学んだことがここでなら、上手くできるんじゃないかなと。独立するまでも3年半、軽井沢でシェフをしていたんですけれども、個性的でおもしろい試みをする生産者の方がいっぱいいらして。

長野県産の地鶏、真田丸に、修業時代に購入した1992年ヴィンテージのヴァンジョーヌを使ったソースを添えて
信州豚 松本産 豚舌/ベーコン 長野県のブランド豚、信州豚の様々な部位を使ったテリーヌ。上のマッシュルームも地元産

――そして10年という節目の年に、「ボキューズ・ドール」へ挑戦すると決められた。どういった経緯だったのでしょう。

ずっと、挑戦したかったのですが、独立してからは、店の日々の営業に追われ、試作は続けていたものの、なかなか応募までには辿りつかなくて。でも、4年前のある日、フランスで一緒に働いていた友人のお店でお昼を食べていたら、そのシェフが「ボキューズ・ドール」に出るんだと言って、写真を見せてくれたのです。その友人に「僕も挑戦したいけど諦めたんだよ」と話した後に、このまま諦めるのは悔しいなと思い始めて。それがきっかけです。

世界の舞台から見えてきたこと

競技中の戸枝氏。「2年前の大会の時よりも、各国ともに機材も技術も格段に進歩していた」年々進化を続ける大会だ ©GL events

――今コロナ禍で日程の延期もあっての開催。どんなところが特に大変でしたか?

一番は、お店と両立させないといけないというところでしょうか。ただでさえコロナ禍で、売り上げや人の動きが制限されていたので、まずは自分の生活を確保しないといけないけれども、同時にこの大会の準備を進めないといけない。その両立が一番大変だったところです。

――コロナ禍ということで、棄権したチームも少なくありませんでした。色々な困難を乗り越えて、出場を決めたのはなぜでしょうか?

そうですね、でも、しっかり準備をしてきましたし、僕1人が出るわけではなく、1年間一緒にやってきたアシスタントの原野修輔君もいましたし、コーチにも付いていただいてましたし。そうやって応援してくれる方々がいたので、その想いを一緒に持っていきたい、というのが一つ。それに、コロナ禍で飲食業界が落ち込んでいるところだったので、良いニュースで盛り上げたい、という気持ちもありました。

――コロナ禍で、スポンサーが集まりづらく、【レストラン トエダ】として自分でスポンサーにもなった。こんな時期ですから、本来ならお店に投資をしたり、運転資金に回したいお金だったかと思うのですが、そこまでされた理由は?

「このまま終わらせたくない」という一心でした。コロナ禍で、飲食業全体が打撃を受ける中、お金が集まりづらいというのは仕方ないことだと思いました。でも、その中でも応援してくださった方がいる。事務局と話し合って、初の試みとしてクラウドファンディングを立ち上げたり。大変な中だからこそ、一層ありがたみが増しましたし、チームとして一致団結するきっかけになったと思います。

――「ボキューズ・ドール」のために、お店を合計1年間閉め、準備に充てたそうですね。実際の練習はどのような形で行ったのですか?

強いチームは、「ボキューズ・ドール」と同じブースをつくって、そこでずっと練習するのです。本当に秒単位、分単位で料理をしないといけないので、同じ配置で同じ機材で行うことがとても大切です。今回、厨房のスポンサーにお願いしたところ、ありがたいことに、すべてお借りできて。ちょうどうちにはガレージもあったので、そこに電気を引いて、同じようにブースを組んで、いろいろ設備を整えました。しっかりした厨房ブースで、渡仏するギリギリまで、何十回も練習ができました。現地で緊張しなかったのも、そのおかげだったと思います。

――お店を閉めて練習に集中するのは、なかなか大変だったのではないですか?

はい。個人店なので、売り上げのことも考えないといけないのですが、何より、いろいろな方に応援していただいているので、練習だけはしっかりして悔いのない戦い方をしたかった。だから、店を閉めてでも、できる限り練習しようと思っていました。

自らも日々森を歩き、デコレーションに使う落ち葉を拾うなど、自然との関わりは深い。そんな中で目にした光景を体現

――今回のテーマ、テイクアウトと大皿料理で、それぞれどんなものを表現しようと思われましたか?

まず、テイクアウトボックスに関しては、トマトがメインの食材だったので、チームで話し合って、青いトマトから熟れたトマトまでを使い、「トマトの一生」というテーマを考えました。大皿料理は、長野の森をイメージして、大皿から試食用のお皿に移す際には、綺麗に盛り付けた料理の上に、大きな朴葉を型どったチュイルを全体に被せて、森の中で葉っぱを拾いあげた時の、その葉っぱの下に広がる自然界の驚きを表現するというテーマをチームで決めました。

――やっぱりその裏には、この土地で十何年もやってこられて、それで長野の土地らしさを表現するっていう想いがあったということですよね。

長野に来てもう13年になるので、人生で一番長く暮らしている土地になります。世界に向けてこの土地を表現することで、恩返しができればいいなと思いました。

――そして、師匠のレジス・マルコンさんが、大会の委員長で、ご自身に土地の大事さや、土地への愛着っていうのを教えてくださった方でもある。その方に対して、自分が十何年過ごしている土地はこうなんです、と伝えたい部分もあったのでしょうか。

そうですね。結果が9位だったので、皆さんどう思われていたんだろう、伝わったのかな、というのは、すごく不安でした。でも、大会が終わってからレジス・マルコンさんとお話しすることができて、その時に「あなたのやっていることは間違っていない、日本をとても感じられた料理だった。コンクールは色々な国の人が審査するものだから、分かる人もいれば分からない人もいるけれども、僕にはすごく伝わった。是非このスタイルを貫いてください」ということを言っていただいたので、本当に救われましたし、うれしかったです。やはりそれを学ばせてくださったのがマルコンさんなので、そう言っていただけて「少しは表現できたのかな」と思いましたし、帰ってからも、続けていこうと思いました。

国内予選で受け取ったトロフィー。2年前は2位で、副賞としてボキューズ・ドール決勝戦を観戦できた経験が、今回生きた

――自分の信じたスタイルをこれからも貫いていくという、後押しをしてもらったということですね。それと同時にあの場に立って、得たことは具体的にどんなものでしょう。

世界のレベルの高さを実感しましたし、技術的にも勉強になりました。世界各国から皆さん来られているので、その国を表現する術というか、住んでいる土地、自分の店の場所を表現する術というのをいろんなアプローチで料理に反映されていて、見ていてとても勉強になりましたし、僕ももっと磨きをかけていきたいと思いました。マルコンさんの料理は写真を一目見れば、「マルコンさんの料理だ」とすぐ分かるのです。だから僕もそういう自分にしかできないスタイルで、自分にしかできない料理をもっと追求していければ、と、もっともっと頑張らないといけないなとは思いました。

――参加される前は、これが最後の大会と思われて、臨まれたとお聞きしたのですけれど、あの場に立つとまた違った想いがこみあげてきたそうですね。

そうです。準備も含め、色々な意味で大変ですし。やる前は「これが最後だな」と思いましたけど、あのステージに立つと、「またこの感覚を味わいたい」という思いにもなります。特に僕らは表彰台に上がれなかったので、表彰台に上がった他の国の姿を見て、余計に「もう一回挑戦したい」という思いが湧いてきました。「ボキューズ・ドール」は、そういう気持ちになる特別な大会だと思います。自分もずっと憧れてきましたし、負けてもまだ憧れがあります。もし挑戦できなかったとしても、あそこでいつか日本がトップに立てる、そんな大会になってほしい。微力ながら、その為に協力したいと思います。

――さて、そんな思いを胸に、軽井沢に戻って来られた訳ですが、今のご自身の目指すものはなんでしょうか?

まずは自分のお店です。ずいぶん長く休んでしまったので、勉強したことを生かして、ここでしっかりいい料理をつくって、お客さんに喜んでいただきたいと思っています。

(※1)「ボキューズ・ドール」 美食の街として知られるリヨンにふさわしい食のイベントをと、フランス料理の巨匠、故・ポール・ボキューズ氏が1987年に設立した世界的な料理コンテスト。通常2年に1度開催され、大陸ごとの予選を勝ち抜いた世界各国の代表が5時間半という制限時間内でテーマに沿った料理をつくり、その技を競う。

撮影/内田 琢麻 取材・文/仲山 今日子 2021.11.8 取材

味わいたい至極の逸品

『信州サーモン 八千穂漁業 野沢菜 有明産海苔』

八千穂漁業の信州サーモンの養殖場を訪れた際に、清浄な冷たい水がたっぷりと湧き出す環境で育てられていることに感動し、信州らしい食材と組み合わせたシグネチャー料理をつくりたいと、生み出した一皿です。デンマークの【ゼラニウム】を訪れた際に、野沢菜にそっくりのソースが出てきたことからアイデアが浮かび、発酵の酸味と旨みのある野沢菜でブイヨンをつくり、減圧調理器で鮭にしみ込ませてテリーヌにしました。野沢菜は、自家製で1年分を仕込んでいます。合わせるのは、旨みのある有明産の海苔。後から考えると、まるで日本の朝食のような組み合わせですね。実際、白いご飯と一緒に食べても、おいしいのですよ(笑)。

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