料理の向こうに笑顔が見える店を
――脇屋シェフにとって赤坂は、修業を始めた場所でもあり、思い入れが深いとお聞きしています。いまお持ちのお店はどれも赤坂にあり、今回お邪魔しているのが、【トゥーランドット臥龍居】。ですが、じつはこの建物、2つのお店が一つになっているような位置付けということですね。
1〜2階はカジュアルな【トゥーランドット臥龍居】、3〜4階が、接待や結婚式にもお使いいただける【Wakiya迎賓茶樓】で、ビジネスクラスから、ファーストクラスに上がっていけるようなね、そういう段階で部屋のシーンをそれぞれ変えてあるんですね。一つ一つの部屋が違うテーマになっていて、用途や気分に合わせて使っていただけるようになっています。
――もう一つ、近くに本店として【Wakiya一笑美茶樓】がありますね。
【Wakiya一笑美茶樓】は最初にオープンした店で、もう23年ぐらい経つんですね。「一日に一回、愉快に笑ってお茶を飲もう」というコンセプトでつくったお店なんです。中国ではお茶にはお菓子や点心がついてくる。そんなイメージで、家庭的な料理、家常菜(ジャージャンサイ)を出す店としてスタートした、一号店です。食卓を囲む人が笑顔であってほしい。これが、僕のいちばんの原点です。
料理人としての原点「耳は兎のように、背中に目をつけろ」
――そもそも、料理との出会いはなにがきっかけだったのでしょうか?
母は料理がすごく好きで、けっして贅沢ではないんですけれどいろんな料理をつくってくれて、子どもながらに「おいしいなぁ」としみじみ感動していました。ただ、小学校3〜4年のときに、母が少し病気をして、父が料理をつくってくれたことがあるんですが、焦げくさくて、油っぽくて……。近くでつくるのを見ていたので「自分にやらせて」と言ってつくってみたら、自分の方がおいしくできたんです。「チャーハンが上手だね」とほめられて、学校に行く前につくってから出かけるようになったのが、料理好きになったきっかけかもしれないです。
――元々、器用なタイプでいらっしゃったんですか?
もうとにかく不器用で、修業も最初の3年くらいは大変でした。当時、中国料理の修業始めは、毎日鍋洗いなんです。重たくて手が痛くなり、半年経つと親指と人差し指の間に、鍋ダコができるんですが、それでも重たい鍋が持てるようになるんですね。それと、厨房内の会話は中国語で、最初はなにを話しているかわからなかったのが、2年経ってくるとだんだんなにを言ってるかわかるようになるんですよね。
そうすると、厨房の流れが読めるようになってくる。鍋を洗っているだけじゃなくて、料理長が料理を仕上げるタイミングが音でわかるようになってくる。洗い物の手を止めて、パッと皿を出して持っていけるようになっている。
よく「耳は兎のように、背中に目をつけろ」と言われて、最初は意味がわからなかったんですけれど、だんだんとその意味がわかってくる。つまり、鍋洗いは、ただ洗っているだけじゃなかったんです。
――「料理という言語がわかるようになると、国や言葉が違っても厨房に入ったときになにが必要かわかるようになる」といわれますが、脇屋シェフもまさしくその「料理という言語」を身につけていかれたんですね。
そうかもしれません。しかもそれは、自分が料理長になって、人を動かすときも同じです。ポジションが上がるにつれて、「あいつ困ってるな」とか「怒られてるな」とか、厨房のいろんなシーンが見えて、自分の立場でやるべきことがわかってくる。
鍋洗いは3年半やりましたが、そんな経験から下積みをしっかりやった方がいいと思っています。うちのお店では、かならず洗い場、ホールを経験してもらって、それぞれの立場の大変さがわかるようにします。あとから自分が成長していく上で、それがいちばんためになるんです。
よい縁をつなぐ人付き合い
――【山王飯店】【楼蘭】と町場のお店を経験して、そのあとは「東京ヒルトンホテル」と「キャピトル東急ホテル」とホテル系でキャリアを積まれた。ブレイクするきっかけになった転機は、27歳のときだそうですね。
当時「キャピトル東急ホテル」で働いていたのですが、ある方に、「立川に新しくオープンするホテルで料理人を探している」と言われて、一緒にその料理人を探していたのですが、なかなかいい人が見つからず、結果僕に話が回ってきました。
新しいホテルには、中国料理店、フランス料理店、鉄板焼き店と、150席ぐらいの宴会場が2つ入る予定だったんですが、行ってみたら目の前が昭和記念公園で、だだっぴろくなにもない場所でした。集客に苦労するだろうと思いましたし、27歳で東京から立川に出ていって、失敗したら東京には戻ってこれないという不安もあった。素直にその気持ちを伝えたら「大丈夫。失敗したら都内に店をつくってあげるから」と言われて、そんなにしてくれるんならと覚悟を決めました。
――それが大きな転機になったんですね。
はい。転機って、人と人との出会いだと思うんですよね。人たちのつながりによって、導いてくれる道っていうのは変わってくる。だれにでもチャンスがあるけれど、チャンスを生かすか殺すかは、自分次第です。
出会いの中には、よい道に導いてくれる人と、悪い道に引き込む人がいます。僕の場合はよい道に導いてくれる方に出会えたのがあって、今があると思っています。
――独立の際に、心に決めたこと、大切にしたことはありますか?
まずは、それまでお世話になった店に迷惑をかけないこと。
新店オープンは、最低でも6人スタッフを集めなくてはいけませんでした。当時、一緒に働いていた仲間に「僕はこういうホテルに店を出すけれども、ついてくるか」と聞いたら15人ぐらいが行きたいと手を挙げてくれました。でも全員連れて行ったら、元の店が困ってしまう。だから抜けても問題ないように、だれを連れて行くかを慎重に考えました。
それに連れて行く仲間にも、家族がいたりするわけですね。だから「絶対失敗はできない、成功させなくては」という思いがありました。
2人でも150人でも、コースで食べられる、新しい中国料理の確立
――27歳で初の料理長。やっと自分のスタイルで出せる場を得たということですね。
それまでは、「自分がやりたい料理がいくらあっても、親方のもとにいる間は、それを出すもんじゃない。お腹の中に貯めとくもんだ」といつも言われていたので、自分のやりたい中国料理ができることは、うれしかったですね。
――そこで出したのが、大皿ではなく、フランス料理のようなコース仕立ての中国料理でした。これはどんなところから着想を得たのですか?
その前のホテル時代は、中国料理とフレンチの厨房が隣同士だったんです。僕は、ちょっと時間があるとフレンチの厨房を見に行っていたのです。そうするとね、フランス料理って綺麗なデザイン性の高い皿に、焼いた魚をのせて、付け合わせがあって、ソースをかけている。それが「あぁ、綺麗だな」と思っていた。
しかも、一人前ずつ出るわけですよね。
かたや中国料理は、皿の大きさが決まっている。2〜3名用、4〜5名用、6〜10名用、つまり小・中・大の皿しかありません。料理を、サービスマンがゲストに見せてから取り分けるスタイルです。
それに、食べる側からしても、中国料理は2名だと、3品も食べるとお腹いっぱいになってしまう。値段もかかるわけですよね。それをどうにか解決したいというのも、根本にありました。
フレンチやイタリアンのように2人で訪れても8品くらい食べられて、一人分ずつ綺麗に盛り付ける中国料理。自分が料理長になったら、そういうことをやりたいなと考えていたんです。
――とはいえ、ほかのスタッフもみな、伝統的な中国料理で修業されているわけですよね。小さいポーションの盛り付けや、少量での炒め物を調理した経験はないんじゃないですか?
だから最初は大変でしたよね。今までは3〜4人前を一気につくってできたてが出せていた。熱々で出すのが中国料理のよさでもあるから、温度感は損ないたくない。でも皿数が増えた分、テーブルごとに何回もつくる必要があって、時間がかかるんですよ。それをいかに早く、熱々で出せるかを考えました。
前菜はある程度、つくって置いておけるものがある。蒸し物は蒸して置いておける。焼き物はオーブンに入れておけばいい。そうすれば、冷たいものは冷たく、熱いものは蒸したものとオーブンにすれば、熱く出せるんですよ。その次に、炒め物をいかに早く出すか、それを組み立てて考えていったんですよね。
――それまでになかったスタイルだけに、ノウハウを試行錯誤しながら組み立てていったということですね?
はい。2名でも、150名の宴会でも、それをできるようにしていきました。
当時はディナーショーというと、フランス料理ばかりで、中国料理は無理だといわれていたんですよ。でも、中国料理でもできます、と僕がホテルに提案したんです。それでもサービスの方々は「中国料理だと取り分けが大変で、一時間半では出し切れない」と言うので、「そんなことない。全部同じように、冷たいものは冷たく、温かいものは温かく、一時間半で出し切れるように出します」と実践してみせました。
それを続けていると、だんだんと「あそこのチャイニーズ面白いよね。一人でも二人でも6種類、7種類食べられる中国料理だ」と、少しずつ評判になっていきました。
脇屋流、「ちょうどいい」のつくりかた
――脇屋シェフのコーススタイルの中国料理は、少ない人数で外食するようになっていく時代背景と重なり、人気を博しました。日本で、中国料理の新しい可能性が開けましたよね。
ありがとうございます。ただ、使うお皿や盛り付けはフランス料理や和食のようであっても、料理の芯は中国料理でなくてはいけない、というのは大切にしていました。
もう一つ、“量”についてもよく考えていました。胃袋って、満足感を感じる分量があるんです。もちろん個人差はあるんですけれども、大体食べ物が600〜700g、それにビールやシャンパーニュ、白と赤のワインなんかを飲むと、大体1kgぐらいが適量なんです。
それに見合った量の料理を、前菜からスープ、点心、デザートまでお出しすると、満足していただける。それをちゃんと考えて、コースでお出しするようにしています。
――「日本人がつくる中国料理」という意味で、どんなふうにご自身のスタイルをとらえていらっしゃいますか?
僕が取り組んできたのは、中国料理の技法はそのまま受け継ぎ、ボリュームや調味料で満足感を追求していくやり方です。
昔は中国料理といえば大皿で、500人、1000人に料理を提供する宴会っていうのが、当たり前にありました。巨大な豚の角煮がドーンと出てきて、それがまた最っ高に、おいしいわけです。中国料理の世界では、「もてなす側は量が少なかったら恥ずかしいから、余るぐらいの料理を出しなさい」といわれていて、わざと大皿で出して余るほど料理を出す風習がありました。
それに、昔と今では中国料理に使う油も変わってきています。
――……というと、どんなふうに変わったんでしょうか?
50年前、僕が見習いだった頃は、全部ラードだったんです。見習いの朝一番の仕事は、寸胴鍋に入ったラードを80度ほどまで加熱して溶かし、綺麗に濾しておくこと。ラードでつくった料理は当然おいしかったです。
でも、それから5年経った頃、オーナーから料理長に「ラードだけだと重たいから、ラードと白絞油(大豆油)を半々にするように」と指示が出た。さらに2年経つと、ラードは使わず、白絞油だけになったんです。たった7年の間に、油だけでもそんなに変わる。だんだんと中国料理も、軽くしていこうという時代の流れだったんですね。
いまはそれよりさらに進んだ飽食の時代ですから、量をたくさん食べて満足するのではなく、いいものをちょっと食べたい、という方が多い。料理をつくる側は食べる側の気分、時代の流れとともに、そういうふうに自分自身も変えていかなくてはいけない。
僕の場合、上湯(シャンタン)も動物性の材料を減らして、代わりに昆布や野菜を入れて違った種類の旨みを加えたり、時代に合わせた軽くするための工夫をしています。
激動の時代に、団結して飲食業界を守る
――時代を読み、適応するというのは、いつの時代においてもとても大切ですね。とくにコロナ禍で、時代が大きく動いている時期でもありますね。
そうですね。飲食業界で生き残るのが厳しい時代だからこそ、連帯が必要だと、今年4月に、さまざまな飲食業界の雄が集まって「食団連」という団体が立ち上がりました。僕もその理事をしています。
この業界は、小規模なお店も多い。たとえばワクチンを打つにしても、小さな店の従業員は後回しにされてしまうんですが、団体となれば小さな店でも職域接種で優先して接種できて、安全性を高められる。お客様には安心して来てもらえるようになり、従業員も守れる。
これまで飲食業界は、料理ジャンルごとの団体はあっても、全体をまとめて提言をしていけるような団体はなかった。それが、和洋中だけでなく、ファインダイニングから居酒屋やファストフードまで、業界全体で一枚岩になることで、守れるものがあると思うのです。
去年6月に、雇用調整助成金が足りず、18団体で政府にお願いしに行ったのが、この食団連の前身です。現在30団体以上が参加していて、これからもっと加入団体は増えていくと思います。
――私自身もそうですが、こんな時代があったからこそ、改めて外食をすることの楽しさや大切さを実感した方も多いのではないかと思います。
若い人には、自分の店を持ちたい、ホテルの料理長になりたい、チェーン店を持ちたいなど、いろいろな夢があると思うんですよね。夢を抱いて、門を叩いてくる若者に対して、我々が経営者として、また先輩として、いかに働きやすい環境をつくっていけるのか。サービスも含め、食は喜びを与え、受け取る仕事なんです。食べる側とつくる側で、そんな思いのやりとりができるような環境を、もっと整えていかなくてはならないと思っています。
撮影/佐藤 顕子 取材・文/仲山 今日子 2022.5.2 取材