世界で自由に活躍するために選んだ、鮨職人という道
――2023年11月にオープンしたばかり。麻布十番の商店街からもほど近いビルの6階にありますが、窓からの眺めも開放感があって、低めのカウンターに明るいマスタードイエローの椅子と、これまでの鮨店のイメージをくつがえす、とても落ち着ける雰囲気ですね。
そうですね。カウンターの高さは、オープン直前まで働いていた【鮨
あらい】の個室のカウンターと同じくらいにしています。従来の、伝統的すぎる「しーん」とした空間より、居心地のよさを大切にしたいなと。フランスが大好きなので、少しヨーロッパっぽい空間にもしようと思いました。あと、実家が白の漆喰の壁と黄色のソファーだったので、椅子の色はそのイメージに。壁と天井の間の角に少し丸みをつけて、まるで実家みたいな、安らげて、あたたかい場所にしたいという思いでこの内装にしました。
――上智大学ではドイツ文学を専攻していたとか。元々飲食業には興味があったのですか?
キャリア選びには、家族の影響が大きかったです。上智大学は母の憧れの大学だったので、入って親孝行したいと思っていました。元々料理とお酒が好きで、今でも実家に帰って母や姉と一緒にお酒を飲みながら料理をつくって、家族みんなで食べるのが至福のときなんです。学生時代も飲食を中心にさまざまなアルバイトをやってきました。鮨の世界に入ろうと思ったのは、父に「鮨職人をやれば?」とすすめられたから。大学を卒業するときにこれからの人生を考えると、鮨職人になれば、好きなことを仕事にできて、自分の腕一つで世界を渡り歩けると思ったからです。
――職人仕事は厳しい修業をしないといけないイメージがありますが、それに対する不安はありませんでしたか?
一度そのことが気になったり、やりたいと思ったら、その気持ちが勝ってしまうタイプなので迷いはなかったですね。ただ、今から10年以上前のことなので、女性に対する鮨店の求人も、情報もいまほどなかったですし、とりあえず勉強してみればわかるかも?と思って、大学卒業後に「東京すしアカデミー」に入りました。女性は少なくて、比率としては1割くらいだったでしょうか。
――卒業後、当時中澤圭二親方が率いていた、四谷の【すし匠】へ。こちらを選ばれたのはどうしてですか?
父が「何事もやるなら一番になれ」という考えの人で、ことあるごとにその言葉を聞かされていたので、それなら一番厳しくて素敵な高級店できちんと学びたいと思って入りました。とはいえ、入ったら衝撃的でしたね。体育会系というか……。私は大学も四谷だったので、同じ四谷で過ごしながらも大学時代のキラキラした感じとのギャップはすごかったですね。それに、私は当時22〜23歳なのに、同僚は16〜18歳と若くて。さらに、私は体育会系の上下関係の厳しさを知らなかった。男女平等なのは良かったのですが、体力的にもきつかったです。でも、そのほうがきちんと学べますし、自分が希望したことでもあったのですが、とにかく労働時間が長くて、体力が落ちて、精神的にも不安定になったこともありました。家にいられるのは4〜5時間くらいで、常に眠かったですね。
でも、郷に入れば郷に従えで、鮨職人の仕事がそういう形で成り立っているのなら、それについていくしかない。辞めることは簡単ですけど、自分で鮨職人になろうと決めて入っているから、一回決めたことはやっぱり続けないといけない。
あとは、最初に抱いた夢である「女性の鮨職人でやっていけたらかっこいいな」があったので、その夢を終わらせたくない、という想いもありました。
当時、女性の鮨職人はほとんどいなかったのですが、【すし匠】には女性の先輩も後輩もいました。いま続けている方はいませんが、当時、高い技術を学んで一番になれたら素敵だな、とは思っていました。
――そこでお世話になったのが、今の【鮨 あらい】の新井祐一親方ですね。
そうですね。当時、中澤親方の二番手をしていたのが新井親方で、直接の接点が多く、一番学びましたし、尊敬をしていたので、「新井親方についていけば、自分の夢に近づけるかも」と思っていました。ただ、体力的に本当にきつくて、1年しないうちに本当に辞めようと思うように……。中澤親方に相談をしたら、【西麻布
拓】をすすめてくださいました。昼営業がない分、夜はやや遅くまで営業しているのですが、【すし匠】と比べたら労働時間も短いですし、超体育会系というよりは、女性スタッフがいて、ソムリエもいて、やわらかい雰囲気の鮨店だったので、お世話になることにしました。
――その後、新井親方が独立するタイミングで、オープニングスタッフとして声をかけられたんですよね。【すし匠】はすごく体育会系ということだったのですが、【鮨
あらい】はどうだったんでしょう?
すごく体育会系の世界に逆戻りしました(笑)。新井親方は、技術である仕込みや魚の扱い方も素晴らしく、その他の、人を育てる力や経営的な目線、人当たりの良さやトークなど、すべてが高いレベルで、新井親方についていけば自分もそういう一流の、第一線に行けるかなと思いましたね。
ワインを学ぶために訪れたフランスが、鮨職人としての覚悟をくれた
――そんな中、3年後の2018年にフランスに渡られたのは、どんなきっかけだったのですか?
【鮨
あらい】では、親方の隣でサポートをしながらソムリエの仕事もしていて、ワインの仕入れも任されていました。お客さんとワインの話をするのも好きでしたし、ワインを学ぶことにもっと時間を使いたい、と考えるようになったのがフランスに渡った理由の半分。もう半分は、職人仕事の中で自分にできないことが多く、そのことが辛かった。「1年、フランスに行ってワインを勉強したい」と新井親方に相談したら、「行っておいで」と言ってもらえたので、ワーキングホリデー制度を利用してフランスに行きました。
これまで海外に住んだこともなく、パリ、シャンパーニュ、ブルゴーニュと、フランスで1年ほど生活したのですが、自分が知らない場所に行ったとき、結局は“自分ができることでしか生きていけない”わけなんですよ。私は鮨しかやってきてないので、フランスに行っても、鮨しかできない。私のことを誰も知らないところに行って、私が生きていける方法は、やはり鮨だったんだ、と。そんな事実と直面して、「鮨職人として生きていきたい」と心の底から思えるようになりました。
――「鮨職人として生きていきたい」というのは、この仕事を選んだときから目指していたことでもあったのですよね。
はい。仕事を始めたときから鮨職人として生きていくことを目指していたのですが、毎日働いていると気持ち的に余裕がなくなり、その道が見えなくなってしまっていました。外の世界に出てみて、とくに友人や家族との時間を大切にするフランスのような国に行ってみて、自分を見つめ直す時間を持てたことで、厳しい鮨の世界で、心を決めて生きていこう、という折り合いがついたというか。
帰国してからは、鮨への向き合い方が一段と深くなりました。まず変えたのは、「まかない」です。まかないでは何を食べてもいいのですが、帰国してからまかないは自分で握ったお鮨しか食べないと決めました。余裕を持ってとっている店の魚を借りて、毎日自分で鮨を10貫握り、それをまかないにして食べていました。たかが10貫ですが、それを1年続けたら、大きな違いになります。あと、魚を買って家でも練習していましたね。
それこそ、お鮨を握らせてもらうチャンスって突然来るじゃないですか。そのときにチャンスを掴めるかどうかだと思うんです。いつかその日が来ると信じて練習し続けて、ある日やらせてもらえる日が来たら、「できます」って言うんです。もちろん、客前で握ったことがないから、できるかどうかなんてわからない。わからないけれど、自分で最高の努力をし続けて、「できる」と言える状態にする、ということが大切なんだと思います。
――そうして、そのチャンスが巡ってきたのですね。
はい。【鮨 あらい】には地下に個室があって、二番手がそのカウンターを任されます。まかないで自分で握った鮨を食べ続けて1年半くらいした頃、二番手だった渡辺
健(たける)さんが独立することになり、三番手だった私に個室が任されました。でも、無条件に任されるわけではなく、まず親方に握った鮨を食べてもらって、そのあとは常連さんにも食べてもらって、認めてもらえれば鮨を握ることができるんです。実力社会なので、誰かに守られているときはいいですけど、結局は自分ができるかできないかでしか評価されない。そのとき、毎日まかないで握っていて良かったと思いました。
――見事認められて、初めて一人でカウンターの中に立って、個室でお客さんにお鮨を出したときは、どんな気持ちでしたか。
「もうやるしかない」みたいな感じでしたね。今もそうですけど、崖っぷちに立たされて、ポンと背中を押される感じというか。カウンターの前に立ったら、もうやるしかない。だからいかに準備しておくかが大切なんです。だからこそ、日々の努力にかかっているなって。自分が自信を持って大丈夫と思えるくらいの準備をしておかないと、ここに立って、ちゃんとお客さんを幸せにできないと思います。
ここから生み出す「幸せのサイクル」
――それから、独立に至るまでは、どんな経緯だったのですか?
父から、「独立して自分で店をやらなければ意味がない」とずっと言われてきたので、いつか独立する考えでいました。個室でお鮨を握るようになって2年くらい経った頃、自分が仕込みをして、シャリを切って、魚を仕込んで、飲み物の提供も含めてひと通りのことができるようになり、お客さんが、私のできることで幸せになって、「おいしかったよ」と帰っていくルーティンができ上がっていました。ちょうど鮨店で働いて10年という節目の年になり、もうちょっと自分らしさを出したい、自分がやりたい空間、自分がやりたい方向性に進みたいと思うようになったんです。
――そうして、ついに念願の自らのお店【鮨 めい乃】をオープンするに当たって、麻布十番のこの場所を選んだのはどうしてですか?
立地はどこでも良かったんですけど、いろいろ探して、“気”がいいなって思ったというか。お客さんが来やすい場所っていうのもそうですし、都心にしては広くて自分自身も居心地がいいなと思えたので。最初に考えていたよりはちょっと広いんですけど、結局私は朝から晩までここにいるので、自分自身が居心地のいい場所がいいかな、と。
――仕込みをはじめ、何から何まで全部やるのは一緒だとは思うのですが、【鮨 あらい】で個室をやっていたときと、【鮨 めい乃】のいま、何が違いますか?
私の技術は新井さんに教えていただいたものですが、ここでは自分の好みに合わせて、味や仕立てを変えています。例えば、酢飯は米酢を増やしてさっぱりと。米はいろいろと探して、無農薬で育てられている在来種の米を使っています。あとは、私のために働いてくれるスタッフがいること。みんなのことを考えると、頑張ろうと思いますね。
――女性の鮨職人はまだまだ少ない現状。【鮨 あらい】にも、ここ【鮨
めい乃】にも、「綿衣さんを見て鮨職人になりたいと思いました」と、憧れて入ってきている女性、男性のスタッフがいると思います。続く後輩たちに、贈りたいメッセージはありますか️?
うちに入ってきてくれている後輩のスタッフたちは、自分の夢や、なりたい像があって入ってきています。シンプルに聞こえますが、それを実現するために一生懸命努力してほしいです。私自身も、「鮨を通して人を幸せにしたい」と思って仕事しているので、その幸せにするスキルを身につけるため、みんなにも日々学んでほしいと思っています。
――元々、世界のどこででも働けるから鮨職人を選ばれた、ということですが、将来的な展開は何か考えていらっしゃいますか。
そうですね。海外には行きたいと思っているので、仕事を含めて行けたら一番幸せかなと思います。自分ができることは、お鮨で人を幸せにすること。世界中の人に私のお鮨を食べてもらって、幸せだなと思ってほしいし、海外に行くことで、私自身がより広い世界を理解して、インプットして、もっと豊かな人間性を得られたら、カウンターにいる人をもっともっと幸せにできる。私自身が多くのものを知って、幸せな経験をしたほうが人に幸せを与えられる。そのために、努力やきついことをすることを選びたい。そこから、幸せのサイクルが生まれると思います。
――5年後、10年後の自分の姿を、どんな風に描いていますか?
全然想像がつかないんですけど、未来はやはり毎日の延長線上にあるのかなと。毎日やることは変わらなくて、いい素材と魚を一生懸命料理して、お客さんにいい時間を過ごしてもらって、というルーティンを続けることですね。それを後輩のスタッフたちにも学んでほしいし、それを学んでくれたら、その子たちがもっと多くの人を幸せにできるなと。
私自身は、私の周りが幸せになっていくために、もっと努力していきたいし、厳しい生活を送りたいと思っています。
結果論ですけれど、「やってることは間違ってなかったから、いまここにいる」。そう思えますし、これからもそう思えるよう、努力していきたいですね。
撮影 / 三橋 優美子 取材・文 / 仲山 今日子 2024.3.13