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  3. 「シエル エ ソル」音羽創氏インタビュー
音羽創 氏 音羽創 氏 音羽創 氏
音羽創 氏 音羽創 氏 音羽創 氏

俯瞰して時代の変化を捉える
“冷静と情熱”を兼ね備えた次世代シェフ

【シエル エ ソル】 音羽 創 フレンチ

東京・白金台に2015年オープンした奈良県のアンテナショップ【ときのもり】。その2階に位置する【シエル エ ソル】は奈良がはぐくむ自然の恵みや歴史を食を通して感じることができるレストラン。オープンから1年弱で、早くもミシュランの一つ星に輝いた。シェフは、フランス料理界の先駆者【オトワレストラン】音羽和紀氏の次男、音羽創氏。彼は料理人として修行を重ねながら、料理だけでなく経営者としての嗅覚も磨いていく。常に先を見て、早い時代の変化に流されず成長し続ける、次世代シェフにインタビュー。

【シエル エ ソル】は2020年3月22日
をもって閉店しました

Interview

陸上選手からシェフへ。偉大なる料理人を父に持つ子供が
将来を決めたきっかけ

奈良の食材を使ったフレンチを提案。前菜の『三輪そうめん、ホヤ、トマト』

――音羽さんが生まれたとき、お父様の音羽和紀さんは栃木の人気レストラン【オーベルジュ】の有名シェフでいらっしゃいました。幼少期からおいしいものばかり食べている生活をされていたのでは?

 いえいえ、そんなことありません。今考えれば、めちゃくちゃな生活でしたね(笑)。晩御飯は毎日営業が落ちついて母親が帰ってきて、22時か23時から食べるのが普通でしたから。友人の家に遊びに行って、18時に夕飯を出されたときは驚きました。それに、よく父親と一緒に高級レストランに行っているんだろう、と言われたのですが、子供時代に父親とレストランに行ったのは本当に1.2回くらい。普通の家庭の同級生の子のほうがたくさん行っていたと思いますよ。けれど、週に一回は必ず家族で一緒にご飯を食べていました。普段の料理は母親が作るのですが、休みの日は父がよく料理を作ってくれましたね。祖父母含めて7人家族分を、15人分くらいあるでしょ! といいたくなるくらいのカレーを作ってくれました。

――そういう環境だと、小さいころから“食”は楽しいなと思う気持ちが自然とあったのでは?

 ありましたね。よそにはあまり行きませんでしたが、父の料理を“おいしいね”、と言ってくれるお客さんの光景を見ていましたし。また、今から思えば母親の影響も大きかったです。当時、父親は仕事がすべてで母は大変だったと思うけれど、常に父親を立てていました。自分が大人になって思いますが、普通の女性ならきっと“離婚です”と何度言ってもおかしくないくらいめちゃくちゃでしたから(笑)。父は年に一回10日間ほどフランスに定期的に仕事や旅行で行っていましたが、母は誰もいなくなったら困るだろうと絶対に一緒に行かずに日本に残って店をしっかり見ていました。ですから、父親に対してネガティブなことを思ったことはないですね。一生懸命仕事をしている父親はかっこいいと思っていました。

天井が高く、木の温もりあふれる【シエル エ ソル】の店内

――では、子供のころから料理人になりたいと思っていたのですか?

 いや、まったく考えてなかったです。高校のときに進路相談を考え始めたときには陸上に夢中で、大学に進学して陸上をやろうと思っていた。そのタイミングで父親にあらためて“将来何をやりたいんだ”と聞かれたんです。“陸上はどんなにがんばっても日本一にはなれない”と言われて。県で1位になったりしてそれなりの成績でしたけれど、確かに日本一にはなれないなあと思いました。そのときに改めて将来どうするのか向き合って考えた気がします。

――次男でいらっしゃるし、お店はお兄ちゃんが継ぐ、と思ったりしていたこともあるんでしょうか?

 そうですね。兄は小学生くらいから皿洗いに入っていたんですけれど、僕は学生時代部活に熱中していて、あまりそういう機会もありませんでした。小学生のころから兄や妹は父と一緒に海外に行っていましたが、なぜか“創はダメ”と言われて連れて行ってもらえなかったんですよね(笑)。ようやく高校生二年生のときにはじめて父親が海外に連れて行ってくれたんです。
 そのときにイタリアのパルマのひとつ星レストランで、フランス人、イタリア人、日本人の3人のシェフのコラボイベントに参加しました。会場となったレストランのシェフはもちろん店のスタッフと、フランス人はスーシェフの方をつれてきて仕事をしている中、日本からは父と僕だけ。僕のコックコートが用意されていて父と一緒に初めてわけもわからず厨房に立ちました。料理を出し終えた後、ゲストの前に父と出たときに大勢の海外の方がスタンディングオベーションで盛大な拍手を送ってくれた。それを見て、うわ、僕の父はすごいんだ! と改めて思いました。その体験が料理人になりたいと思った大きなきっかけです。帰国後、高校3年の冬の駅伝を終えてから父親の手伝いをして、4月から最初の修行先、宮城県の【シェヌー】に就職をして現場に入りました。

それぞれの師から学んだ、夢を実現していくための力

――なぜ【シェヌー】に入られたのですか?

 ここは完全に“父が選んでくれたところ”です。父は僕のことをよくわかっていたんだと思います。僕はまったく調理の経験もないし、フランス語もわからない。短気というか学生のころやんちゃなほうだったので、東京の飲食店に勤めたらすぐに辞めてしまうと思ったのでしょう。【シェヌー】の赤間シェフ夫妻は僕のことを気にかけてくれて、師弟という関係以上にかわいがっていただきました。ですから、僕がシェフとマダムのために早く一人前にならなくてはという気持ちになるのも早かったです。

一人の力ではなく、チーム力で店を作っていきたいと語る音羽創シェフ

――最初に働いた【シェヌー】では何を学びましたか?

 チーム力ですね。人との接し方というか。シェフはもちろん、当時いらした二番手の方から大きな影響を受けました。とても忙しい店だったのですが、その方は常にポジティブなモチベーションを持ちながらフラットな姿勢を崩さない。スタッフに上手にいろんなお願いができる方でした。その方がいることによって、シェフの指示がなめらかにきれいにオーガナイズされていく。シェフとその方の信頼関係もすごかったと思いますね。一緒に働けたのは本当によかったと思いました。

――栃木は“海無し県”ですが、海のある宮城県は扱う食材も大きく違いそうですね。

 そうですね。やはり魚介の扱う量がすごく多かったので、いろんな魚の扱いを学んだことは確実に武器になりました。 【シェヌー】の後に東京の【ル・マンジュ・トゥー】で修行をしたのですが、それがあったことで谷シェフの懐に入りやすかったです。東京にはあまりない魚介類などのことも知ることができたので、珍しい魚介を僕が紹介させていただくこともありました。そのかわり、それ以外はほとんど通用しなかったです。

プレミアムヤシオマスのショーフロア。大和まなのピュレと白味噌のソースが鱒の柔らかな食感とよく合う。セロリのような風味の大和当帰がアクセント

――それまで積み上げてきた経験が通用しなかった!? 【ル・マンジュ・トゥー】ではどんなことを学ばれましたか?

【シェヌー】で学んだ4年半では知らないこともまだまだありました。例えば羽つき一羽の鶏の処理など、“やり方知りません”ていうことが最初は多かったんです。無我夢中で仕事しながら様々なことを学びました。でも一番体に染み付いたのは、とにかく、キチッとやらなくちゃいけないということ。完璧にやらなくちゃいけない、ということですね。また、厳しい方でしたので、根性論もできあがったというか。もともと根性はあるほうだと思っていましたけれど、いやいや自分は甘かったと気づきましたね。また、技術的な面では食材の処理の仕方は勉強になりました。無駄にする食材はほとんどなかったですから。また『ジュ・ド・オマール』や、『フォンド・ボー』など本当においしかったですし、フランス料理の基礎の精度を高め、自身の技術の幅を増やすことができました。

――【ル・マンジュ・トゥー】で修行後、渡仏してアヌシーの【Le Belvédère(ベルヴェデール)】に行かれますね。

 そのときの渡仏の目的は、“料理を学びに行く”、というよりフランス語を勉強することでした。父がよく「10年たったら料理はサビつく」と言うのですが、僕が【シェヌー】で初めてフランス料理をやったころと、【ル・マンジュ・トゥー】を辞めるころの7年の間に世の中の料理は本当に変わっていた。料理そのものよりも、フランスに友人を作り、コミュニケーションを取れるようにして、フランスに定期的に行ける環境を作ることが重要だ、と言う考え方は本当にその通りだと思いました。ですから、語学学校ありきでアヌシーに行った。修行先の1つ星レストランのオーベルジュ【Le Belvédère】で働いたのは、たまたま家の近くだったから。とはいえ、フランスならではの星つきレストランの贅沢な雰囲気や、そういう場所に来る富裕層の楽しみ方などを間近に体感できたことはいい経験でした。さらに、この店はもともとビストロだったのですが息子さんの代になってガストロノミーに舵を切り、ミシュランの星を取った。代が変わって方向性を変えていく経営の方法なども非常に勉強になりました。

クラシックなフレンチにある「牡蠣と牛肉」の組み合わせは“サシがある牛肉のほうが牡蠣との相性がいい”と音羽さん。A5ランクの大和牛ならではの一品

――そして2010年、【オトワキッチン】の立ち上げでフランスから戻っていらっしゃいますね。お父様からは何を学ばれましたか?

 考え方ですね。父とは料理のことはほとんど話さないです。この店の料理を僕が作って意見を求めても「うん、いいんじゃないか」っていうくらいです。でも、スタッフのやりとりとか、店のオーガナイズの仕方は本当に影響されています。実際僕は毎週「四季島」に乗っているので店にいないこともあるのですが、その間のクオリティや、スタッフのモチベーションをどう保つかを考えるんですね。料理を追いかけつつ、でも俯瞰して店のありかたをどう整えることができるか、自分が他で学んだことをどう店に落とし込んでいくか。長い目でみたら、時代がどんどん変わるなかで変化に対応できずに自分が一歩も動けないというのではその先成長できないと思うんです。僕は天才でもないですし。そういう中、父親の話はとても腑に落ちることが多いんです。

――考え方や、性格がお父様に似ていらっしゃるのかもしれませんね。

 いや、洗脳されているんですよ(笑)。でも、自分の性格もありますし、部活でずっと部長をやってきた学生のころからの自分のあり方も大きいかもしれません。職人としてマニアックに突き詰める部分と、組織でものを動かすということ両方に興味があります。あと兄(【オトワレストラン】音羽元シェフ)の存在も大きいです。兄はどちらかというと職人肌ですし、しっかりと本店のシェフとして僕にはできない料理観を持っているので、そこを突っ走ってほしい。兄と話すときには僕も料理のことばかり時間を忘れて話してしまい、父に注意されるほどなんですよ。だから僕は料理以外のことも俯瞰して整えつつ、料理人として経営者としてバランスが取れればと思います。

「奈良の魅力」を発信するために、
ビデオ通話で野菜を仕入れ、SNSで人脈を作る

――2016年、奈良県が運営する【シエル エ ソル】のシェフに指名されたとき、どのような店にしようと思いましたか?

 父が奈良県との縁があったことから、この店のシェフを任されることになりました。正直最初はどうしたらいいかわからなかったですね。“奈良をPRする”という場所なので奈良の食材を使って料理をすることが前提ですが、ただ単に、奈良の食材を使うだけでいいのかと悩みました。それに、いくら奈良の食材でも最初は味噌や醤油を自分の料理に使うことに抵抗があったんです。けれど、たとえば東大寺に古くから伝わる二月堂の味噌など、奈良の食材はそれ自体にストーリーがたくさんあるんです。そんな話を聞くうちにこれを自分が使わない理由はなにかあるのか? と改めて問うてみた。そのときに僕がいいと思えばいいのではないのか、と考えが変わった。そこからは視野を広げていろんな食材を使うようになりました。その後徐々にお客様から“奈良を感じる”と言われるようになりましたね。でも、今でも正解はなくて、現在進行形なんです。

白金台の閑静な住宅街に位置する奈良県の「食」と「魅力」の情報発信拠点「ときのもり」。【シエル エ ソル】はその2階にある

――奈良県の伝統野菜「大和野菜」も料理にいろいろと登場しますね。食材はどのようにして仕入れているのですか?

 食材集めも試行錯誤でした。奈良の伝統野菜を買い付けるのも最初は本当に大変で、一年半たってやっと直売所から集められるようになりました。県のマーケティング課の職員の方と連携し、奈良の直売所を周ってもらってLINEの電話でビデオ通話しながら野菜を仕入れたりしています。そうでないとレストランで使う量の奈良の野菜を集められないのです。ほかにも奈良の食材を探すのにSNSを活用したりしましたね。気になる地物のハーブを使っていた面識のない奈良のレストランシェフに、SNSでダイレクトメッセージをして、その食材について教えてもらったりしました。

今日仕入れた採れたて野菜。ほとんどが奈良から直送。カリフラワーととうもろこしだけ栃木産

――SNSを活用して情報を仕入れる、というの音羽さん世代のシェフならではですね。でも確かに奈良から離れた東京で“奈良県”らしさをどう感じてもらうか、という課題は難しいですね。

 はい。ここは奈良ではありませんから。東京で奈良をどう感じさせたらいいのだろう、というのは一階に入っている物販「リブレ」の方ともよく話すんです。でも、普通に“じゃあ、奈良らしさってなに?”って自問自答してもはっきりとした正解がでてこない。もう少しここが成長していったら、メニューに和紙を使うとか、しつらいを考えるとか、もっといろんなことができると思いますが、今は欲張らずにテーブルの上で奈良県を感じる”エッセンス”を作れればいいかなと思っています。料理の食材はもちろん、話題にあがっている奈良の日本酒をメニューに出したり、素麺を料理に使ったり。でも、僕が作るのはフランス料理ですから、奈良らしい食材を使った上で、フランス料理ならではの香りの組み合わせを大切にして料理を作っています。

――将来的にはどんなことにチャレンジしていきたいですか?

 都心にはない、圧倒的な景観の中でレストランをやりたいです。東京では圧倒的な景観は買えませんよね。栃木に素敵だなと思うところがいくつかあるんです。たとえば中禅寺湖。国有地なのですが、それを一部民間に開放していくという話があって、そこで店をやれたらいいなと思います。それから大谷石の石切り場。採石場のトンネルがあって、そこもカッコいいなあとか。将来的には栃木に戻って店をやりたいという気持ちが強いです。それは生まれたところでもありますし、父親が今までやってきたことを無駄にしたくないという思いもあります。いろんな地域に行ったからこそわかる栃木の食材の素晴らしさも改めて感じます。
 また、今の奈良県のプロジェクトもそうですが、日本のいいものを料理を通じて発信していきたいですね。“地産のものだから”という理由ではなく、“食材として素晴らしいものだから”と料理人が自然と使いたくなる良質な農産物を生産者さんとともに作りたい。そして、料理人として、経営者として、地方を盛り上げていきたいですね。

撮影/佐藤 顕子 取材・文/山路 美佐(2017.7.27取材)

シェフの裏ワザ

【シエル エ ソル】流、魚の火入れのこだわり

魚のポワレは焼く前の状態が見極められればそこまで難しくありません。鮮度が良すぎるといかってしまうし、旨みもでない。でも、寝かしすぎると駄目になる。ジャストな状態に持っていくことが大切です。優しく指を添えてフライパンに皮目をつけてカリッと焼きあげます。修行先の谷シェフは“君はフライパンとオーブンでどこまでできるの?”という人でしたから、フライパンひとつで仕上げる基本的な技術を大事にしています。一方、新しい調理機器もいいものは積極的に取り入れていきます。万が一、人が急に減ったなどの緊急の場合に、安定して火入れができるサーキュレーターを使う、などの機転も必要。そのときの状況で判断して、いろんな選択肢のなかで適切なものを選んでいく柔軟性を持つことを心がけています。

音羽 創

1983年、栃木県宇都宮出身。宮城県【シェヌー】や神楽坂【ル・マンジュ・トゥー】で修業後、父・音羽和紀氏の【オトワレストラン】を経て渡仏。2010年に帰国し、宇都宮【オトワキッチン】料理長、【シテ・オーベルジュ】責任者を務め、2016年に【シエル エ ソル】を開店。2017年より一つ星を獲得し続け、2020年3月に同店を閉店。

シエル エ ソル

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