日本生まれ、フランス料理育ちの「原点」
――明治神宮前駅から徒歩3分という立地、この場所で2011年から【kiki
harajuku】として、フレンチスタイルのビストロを営業していらっしゃいました。同じ場所を改装して、2023年10月に日本料理【野田】として新しいスタートを切りました。どんなコンセプトのお店なのでしょうか?
「原宿から提案する現代の日本料理」がテーマです。もともと僕はフランス料理の修業をしていて、ビストロスタイルで営業していたのですが、その技術を大切にしながらも、新しく日本料理の店で学んだことを合わせて、日本料理を提案できたらいいと思っています。
――料理の道にはどういった経緯で入られたのですか?
もともと静岡の島田市出身で、祖父母も両親も飲食業をやっていたので、子供の頃から調理場で遊んだり、手伝いをしたりしていましたので、飲食業は身近なものでした。身近なだけに、厳しさも知っていましたし、その道に進む気はなかったのですが、高校生で人生の決断をするときに、やはり飲食業をやってみたいと思うようになりました。
最初は、静岡の西焼津にあるクラシックなフランス料理店で働きました。厨房はシェフと僕だけだったので、1から教えていただいて。その後、フランスに渡りました。学生ビザで語学学校に入って、そこから研修生として小さなビストロから星付きのレストランまで行き、3軒目のレストラン【タイユヴァン】で労働ビザを取っていただいたんです。
――【タイユヴァン】といえば、クラシックの名店ですね。
僕は2004年から2007年にかけてフランスにいました。技術を学ぶために世界中からいろんな人が集まっていましたし、食材も本当に“ピン”のもので、シェフも朝から現場に入ってすぐ近くで仕事をしている。厳しい環境ではありましたが、レベルの高い仕事をしていたので、とても勉強になりました。
――働くことに対してレベルが高いというのは、どんな感じなのですか?
プロ意識というか、それぞれ皆自分の責任を全うして仕事に取り組んでいて、スピード感とクオリティの高さ、求められるものの厳しさはすごくあったと思います。
――【タイユヴァン】を選ばれたのはどうしてですか?
当時、【ル・ムーリス】や【ピエール・ガニェール】などの繊細なスタイルが新しかったのですが、“味をつくる”部分を勉強したかったので、【タイユヴァン】を選びました。
もともと学生の頃に音楽をやっていたのですが、さまざまなアーティストを見ていて、基礎がないといつか限界が来る、と感じていました。技術面で、「すでにアレンジされたもの」ではなく、「基本となるクラシックなもの」を学びたいと思ったからです。部署としては、最初は肉、次に魚、温前菜といろいろと回らせてもらいました。
――世界から優秀なメンバーが集まっている中、どんなふうに強みを出していかれましたか?
忙しいと自分優先になりがちなんですけど、何か言われたら、絶対率先してやる。あとは周りの人が何をしようとしているか感じ取ろうとしていたと思います。でも、それは僕だけでなく全員そうでした。緊張感がありながら気遣いもありましたし、そういうのが本当の優しさだと思いましたし、楽しかったですね。
――一番学んだのはどんなことですか?
具体的な言葉というより、当時のシェフ、アラン・ソリヴェレスさんは、本当に現場にいる人だったんです。仕込み中も営業中も、ずっと見えるところで仕事をしていました。伝説とも言えるオーナー、ジャン・クロード・ブリナさんが朝鍵を開けて、夜自分で鍵を閉めていた。それは、最後まで自分が責任を持ってやる、ということだと思うんですよね。なので、自分もそういうスタイルでやっています。朝鍵を開けて、閉めるところまで。それが大切なんです。
「1から自分で手がける」からこそ表現できる世界
――もともと音楽をやっていらっしゃったとか。
そうですね、バンドとDJもやっていました。当時から、大きい会社やレーベルに所属してすべて用意された環境でやっているアーティストよりも、最初から最後まで自分で完結させるインディーズのスタイルが好きでした。その方が自分にとっては説得力があるんです。料理も同じで、その方が多分おいしいと思うんですよね。
――1年半ということは、3年間のフランス滞在の半分ぐらいは【タイユヴァン】にいらしたということですよね。その後、どういったきっかけで日本に戻られたんですか?
当時(2007年)は、パリでもネオビストロがすごく流行っていて。料理も食材も一流、でも価格は庶民的。それが本当に流行っていたし、かっこいいし、おいしかった。自分もすごく憧れて、日本に戻って
30
歳までに自分のスタイルの店をやりたいと考えました。
帰国後、フランス料理の郷土料理を学んでみたいなとも思ったんです。そこで、神楽坂にある【ルグドゥノム・ブション・リヨネ】のクリストフ・ポコシェフの下で働かせてもらいました。ちょうどオープンして2~3年目ぐらいで、星も取れて、スーシェフとしていい時期にいろいろと学ばせていただきました。
――リヨンの郷土料理には、あまりファインダイニングでは使わない内臓なども使った魅力的な料理も多いですよね。
ブーダン
ノワールとかトリッパのカツレツ、クネルなど、ガストロノミーなレストランでは扱わない食材の使い方も学べましたし、郷土料理と洗練されたレストランの料理と両方をやるお店で。シェフはフランス人ですが、日本人的な感覚も持っている方で、オーナーとして成功している。料理はもちろん、経営の方もいろいろ学ばせていただいたと思います。
――結局、2011年の28歳のときに独立されますが、このタイミングで独立しようと思われたきっかけは?
30歳になる前、25〜30歳の間で独立したいなと思っていたのですが、すぐに物件は見つからないだろうから事前に探しておこう、と思って調べていたら、この物件と出会いました。原宿はよく遊んでいた場所で、馴染みがありました。明るい雰囲気と、昼も夜も人通りが多い立地のよさ。僕は静岡の田舎出身なので、人がたくさんいるところは結構好きなんです。お店もお客さんがパンパンに入っているのが当時は好きで。
――お料理のスタイルは最初からイノベーティブだったんですか?
最初は、ワインバーで軽いつまみを出す感じでスタートしました。ランチも800〜1,000円前後でやっていたんです。クラシックなガストロノミーのレストランでいろいろ学んだけれど、カジュアルなスタイルで楽しんでもらえる店を、と。でも、やっていくうちにもっとできたての、おいしいものをつくりたいなという気持ちが出てきて、それからアラカルトのビストロスタイルになって、最終的にはお任せのコースになったんです。今のように日本料理とうたってはいませんが、そのときから日本料理的なエッセンスはありました。
「自分が料理をやる意味」を考えた末、行き着いた「答え」
――どんなきっかけで「日本料理の学びを深めよう」と思うようになったのですか?
これまでも日本料理的な要素や創作的なこともやっていましたが、店が10年目を迎えるタイミングだった2020年、コロナ禍になる直前に、これからのことを考える上で、いろいろ学んだフランスに行こうと思ったんです。当時の流行や定番のお店を回ったのですが、そこで感じたのは、「自分にとっては、フランスをいつまでも追いかけても意味がない」ということ。日本人ですし、原宿という場所でやる意味も考えると、“自分の中から出てくる何か”で勝負した方がいいと思ったんです。
フランスのレストラン、ビストロ、ワインバー、全部大好きなんですけど、このスタイルで日本人の僕がやる意味が分からなくなったんです。
そのときに、日本料理を勉強しようと思ったんです。明治神宮前にある【重よし】という老舗の日本料理店があるのですが、そこの大将が10年前にうちのお店に食べに来てくださって、そのときにサイン入りの本を頂いたんです。フランスから帰ってきてその本を改めて読んだときに、すごいことをやられてるいなと思い、すぐ食べに行って、「定休日に1年間、勉強させてほしい」と直談判して、学ばせていただくことになりました。
――どの部分に感動したんですか?
余分なものが何もなく、旬の活かし方、食材の活かし方がすごい。あと驚いたのは、すごくアナログなことですね。とくに老舗なので余計そうなのかもしれませんが、何も機械を使わず、全部手作業。あとは食材のよさですね。食材のクオリティのよさにとても驚きました。
実は、当初はフランス料理の参考にするために、日本料理の技術や考え方を学びたいと思ったんです。そうして通い始めたら、自分の料理がすごく変わってきて。
――そこから、完全に日本料理の店にしようと思われたのはどうしてですか?
お店を改装することがあらかじめ決まっていて、食材を捌いたり盛り付けたり、お客さんの前で全部やりたいと思いながらお店のカウンターの配置を考えていたら、やはり日本料理をやるべきなのかな、と。これまでの12年間も実験みたいな感じで「フランス料理であろう」と考えたことはそんなになかったんです。空間のデザインができ上がっていく中で、自分の経験の蓄積も含めて「日本料理としてやってみたい」と思ったんです。もちろん未だに勉強あるのみなんですけれど。
――お料理としてはどんなふうに変わったのですか?
もともと名前のない架空の料理をつくらないのですが、今はもう和食の伝統的な料理だけをつくっています。発酵させたり、組み合わせの相乗効果を狙ったりというのが好きなので、組み合わせは意識してつくり込んでいます。
「自分が料理をやる意味」を考えた末、行き着いた「答え」
――パッと見ると同じ日本料理に見えるかもしれないけれど、若干フレンチの要素が加わることによって、味と香りのレイヤーが細かくなる、というイメージでしょうか? 例えば、味の構成をつくる上で、食材の化学成分のような部分の共通点から入るアプローチだったり、自分の記憶の引き出しにある味から一部入れ替えたり、という方法などいろいろあると思うのですが。
すべて参考にしたいなと思っているので、何をしていても、何を食べてもアイデアにつながりますし、教科書的な成分や数値を参考にするときもあります。あとはお店を始めてから試した蓄積だったり、逆に完全に思いつきだったり。同じ食材でも、生やだし、オイルなど形が変わると合う場合もある。全部の可能性を活かしたいんです。同時に、つくった時点で終わりではないので、決めつけたくない。思いついたら全部やるようにしています。ヒントになるんだったら、もう何でも、どこからでも参考にしたいなと思ってやっています。
――「新しい日本料理」を生み出す上で、日本料理の定義とはなんだと思いますか?
日本の食材を使って、日本人が昔からつくってきた、日本料理として名前のある料理。今まで脈々と受け継がれてきた料理の歴史の中で、さまざまなものが生まれ、守られてきました。すごく変えて驚きを狙ったりですとか、自分を出したいというわけではなくて、季節の食材を活かすことを第一に考えています。
短い旬を、どうやって食べてもらうべきか?ということに集中しています。
いつの時代にも、新しいものと古いものが同時に存在する。知恵と工夫で調和をはかり、おいしさを模索したいと考えています。それが僕の考える日本料理ですし、そんな日本料理の枠の中でやっていきたいなと思っています。
――日本料理【野田】として新たなスタート。今、目指していることは?
自分がやっているスタイルが、日本料理の一つとして認められるような世の中を日指して頑張りたいなと思います。
撮影 / 今井 裕治 取材・文 / 仲山 今日子 2023.12.26