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大野 尚斗 氏大野 尚斗 氏大野 尚斗 氏
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料理人として旅に出て、料理人としてゲストを旅に連れてゆく

【Syn】大野 尚斗フランス料理

これまでに旅した国は43カ国、その数は現在も更新中だ。元バックパッカーの両親に連れられて、幼い頃から旅に出てきた。「国境」を「壁」と感じない生き方は、そんな生い立ちにも由来しているのだろう。世界で料理を学んだ中でも忘れられないのは、「世界一厳しい厨房」と評判だった、米国【アリニア】での体験。不器用なタイプだからこそ、前のめりに。あえてきつい環境に自分を追い込んだ。そうして築いた自らのスタイルを「キュイジーヌ・ヴォヤージュ」と名付けた。福岡に腰を落ち着け、世界の旅をイメージして構成されたメニューを提供する店を開くことに躊躇はなかった。なぜなら、料理を通して、ゲストと一緒に世界を旅しているのだから。

Interview

国境を超えてゆく、異色の経歴の原点

夕暮れ時、住宅街に「Syn」の文字がほのかな照明で浮かび上がる。これが、ここから始まる旅の出発点だ。

――これまでの経験がいろいろ生きたお料理ばかりですが、そもそも料理の道に入ったきっかけについて教えてください。

僕は小さい頃から食欲が旺盛で、1歳前には、台所のカレーをひっくり返して食べているような子供だったんです。高校3年生の時に、絵を描くのも好きなので、漫画家になるか料理人になるかすごく迷ったんですけど、その時に「料理人になったら、おいしいものをずっと食べられる」と思ったのが、最初のきっかけです。

――日本の料理学校ではなく、アメリカで学んだというのも異色ですね。

料理業界に入ったのは、高校を卒業して18歳の頃に働いた地元のフランス料理店からだったのですが、その後ニューヨークの「カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカ(略称CIA )」という料理学校で料理を学びました。

元々、日本の学校自体があまり性格に合わなくて。個人的には普通のことだと思うのですが、言いたいことをはっきり言うタイプなので、あまり学校の先生から好かれるタイプではありませんでした。早く海外に行きたいと思っていろいろ探していた時に、たまたまCIAをテレビで見て。実際に見学に行った時に、いろんな国の人が集まっていたので、世界中に友達ができることがすごくおもしろそうだと思い、入学を決めました。

――なかなか勇気がいることではないかと思うのですが、実際に入ってみてどうでしたか?

両親がもともとバックパッカーで、小さい頃からたまに海外に連れて行ってもらっていたので、海外に対する抵抗が全くなかったんです。

授業でとても印象に残っているのが、「ペリメニ」という、ウクライナのラビオリのような料理を習った時のこと。授業では中に詰める具材が決まっていたのですが、その後学校のパーティーで僕がその料理の担当になった時に、わざと違う具材を入れてみたんです。そうしたら教授が「そういうクリエーションが大事だ」とほめてくださった。皆と違うことがほめられるのって、すごく楽しいなと。

「違いや新しさをポジティブに受け止めるアメリカの教育システムは、自分自身の考えともマッチしていた」と大野氏。

――学校だけでなく、海外の店に修業に出るようになったきっかけはなんだったのですか?

CIA在学中の夏休みに、研修で貯めたお金を元に、一人で【カンテサンス】と【未在】に伺ったんです。前の日から体調を整えて、料理はもちろん、サービスやインテリアのディテールに至るまで、全ての情報を逃さないように向き合いました。そこで、こんなレベルの店が世の中に存在するんだ、と衝撃を受けて。「一度の人生、目指すならトップを目指さないと意味がない」と、思うようになったんです。

世界のトップの料理が見たくなって、それから食べ歩きがすごく好きになりました。それまでは音楽とか、ほかにも好きなことがいっぱいあったんですけれど、それがきっかけで、自分の中の一番が「食」になったんです。そうすると料理本や料理動画もいろいろ見るんですが、それは勉強ではなくて、感覚としては、漫画を読むような感じなんです。友達とカラオケとかに行くよりも、僕はノートを開いて料理を考えたり、食事に行ったりするのが一番楽しくなったんです。

卒業した後も世界各国で食べ歩いて、気づいたら43カ国になっていました。僕は興味を持ったら、考えるよりも先に行動をする派なんです。今はネットでもチケット予約ができますし、行きたいと思ったら行ける。レストランで働きたいと思ったら、断られるかも、なんて考えずにまずは働きたいと言ってみる。一回断られて諦めるなら、それはそこまで本気じゃない、ということだと僕は思っています。

自分を追い込むため、敢えて選んだ「過酷な修業先」

【アリニア】時代はディナー営業だけでなく、朝からの仕込み担当にも志願。密度の濃い時間を過ごした。

――多くの国で働いた中でも、これまでで一番記憶に残った修業先はどこになりますか?

本当にたくさんありますが、一番は22歳の時に働いたシカゴの【アリニア】でしょうか。あまりに過酷だったので、当時に戻りたくはないですが……。90席を7人で回していたので、一日23時間ぐらい、休憩も賄いもなしでずっと働いていました。毎日30分睡眠で……。まあ、睡眠なのか倒れてるのかわからないくらいでしたけれど。

でも、ちょっと慣れてくると、仕事が18時間で終わる日が出てくるんです。早く終わると言っても朝の3時。そうすると、グラント・アケッツシェフと、あの有名な「食べられる風船」をつくったマイク・ベゲル総料理長が、その時間から新しい料理の試作をするんですね。そこで、シェフに「手伝いたいです! 見たいです!」って一緒に残らせてもらって。それがすごく楽しくて、刺激的でした。

同時に、孤独でもありました。海外でも、国や地域によっては日本人が多くいらっしゃる店もあると思うのですが、シカゴには知り合いもいなかったし、当時の【アリニア】で正社員は僕以外、外国人が一人もいなかったんです。アメリカでは、レストランはクリスマスから正月までずっと休みなんですけど、僕が住んでいたところは近くにWi-Fiもカフェもなくて、人と喋らなかったんですよ。そうすると人間ってどうなるかというと、正月が終わって店に出向いた時に言葉が喋れないんです。日本語とか英語の問題じゃなく、人と会話ができないぐらい言葉を忘れちゃうんです。そういう意味でも強烈な体験でした。でも、病気になろうが怪我をしようが、自分一人。それでも生きてきたことに、すごく自信がつきました。それからは、どこに行ってもそんなにきつくないな、と感じられるようになったのはすごくよかったです。

深夜の営業後から始まる試作の時間、既成概念にとらわれず、徹底的に細部にこだわる様子をつぶさに目にしてきた。

――そんな過酷な環境を乗り切れたのはどうしてですか?

一つは、【アリニア】を自分で選んだことです。ニューヨークの【ノマド】というお店で働いている時に【イレブン・マディソン・パーク】に誘っていただいたんですけど、あまりにも居心地が良すぎる場所はよくないなと思ったんです。

実は、僕って授業は集中して受けるんですが、人の目がない宿題などは、ちゃんとやるタイプじゃなくて。それと、元々手先が器用な方ではないので、器用な人が1回、2回でできることが、僕の場合は10回、100回とかかる。でも数をこなすことで、結果として器用な人よりも質の高い仕事ができるようになると考えました。だったら、きつい場所にいた方がいいと思って、「世界で一番厳しくてきついお店で修業しよう」と思ったのです。周りの方に聞いて、教えられたのが【アリニア】で。雇ってもらって、店の近くにアパートを借りたんですが、当然家賃も高いし、一人ですから相談する相手もなく、逃げられない。

――そういう所で乗り切れるタイプの人ってどういう人だと思いますか?

深く考えない人。ある意味、打算的な人は残れないんじゃないかな。もちろん辞めていく人、逃げる人、倒れる人、めちゃめちゃいるお店だったんですけれど、僕は全く考えてなかったんです。まず目の前のことをやるので精一杯過ぎたということもありました。1年7カ月位お店にいたんですが、疲れたと口にする前にもう倒れていたので、それが良かったのかもしれません。

「人の手でつくる料理」への思い

スウェーデン【フェーヴィケン】で学んだ肉焼きは、骨を通してじっくりと火を入れてゆくイメージだ。

――【Syn】では、機械的な物はあまり使わないで、人の手でつくる物っていうのにすごくこだわりがあるとおっしゃっていましたね。

原点として、一番心に残っているのは母の料理だと思います。母は冷凍食品や化学調味料を使わないタイプで、子供の頃、見た目が綺麗な冷凍食品を食べてみたい、とお弁当に入れてもらったら、口に合わなかったんです。やっぱり時間をかけた料理にしか生まれないものがあると思うんです。

レストランでそういうことを学んだのは、バーベキュー料理で有名なスウェーデンの【フェーヴィケン】ですね。閉店までの2カ月間働かせてもらって、最後はメインディッシュの肉も焼かせてもらいました。うちで提供している、牛肉にバターを塗ってエイジングする手法は、そこで学んだことを日本の風土に合わせてアレンジしたものです。

本当に自分が心からおいしいなと思ったお店で共通していたのが、その日に使う料理の材料の下拵えを、当日に全部やることです。野菜も切って置いておくよりも、使う直前に切った方がおいしいのは、当然でしょう? でもそれをしないのは、大変だから。

それをやったことでおいしいものができて、お客様が喜んでくれるし、食材や生産者へのリスペクトになる。それだったら、その“大変”を当たり前にやっていけば、もっと僕らが自信を持って出せるものがつくれる。だったらそうすべきだと思うんです。自分に嘘をつくのが一番嫌なので。そういった妥協のなさは、【フェーヴィケン】でもすごく感じましたし、今のうちのお店の考え方の基準になっています。

「ここでしか食べられない美味」を生み出す極上の食材。生産者におまかせで届く柑橘などで、季節感も表現。

「最高」を表現するために、世界で食べ歩く

もっちりした食感を生かして焼き上げた、能登・川端さんの蓮根。ナスターチウムの葉で酸味のアクセントを。

――食べ歩きというのは、これまでトータルで何軒食べ歩いたことになるんですか?

開業準備中の一昨年、レストランだけでも300軒位は食べ歩きました。合計で2000軒位は行っているのではないでしょうか。一昨年はグリーンランドまで行きましたし。

――そこまでして行った甲斐がある、自分の料理に役立つのはどういう所ですか?

正直にいうと、単純に、食べてみたいという理由なんです。ネットで写真や記事を見ても、自分がどう感じるかはわからない。「食べないと」という思いが強くて行ってしまうだけです。あとは、一つの指標を見出すため、という理由です。

――どんな意味での「指標」なのですか?

僕は常々、古典の理解や食材の知識、調理技術など、すべてを含めた基礎がなければ、本当のクリエーションはできないと思っていて、オリジナリティを大切にしています。だから、どこかで見た料理をアレンジして出す、というのは基本的にやりたくないので、料理そのものを参考にすることはありません。でも、一つ一つのパーツの完成度という意味で、比較しないといけないと思うのです。

例えば、僕の『アップル』という料理は完全オリジナルで、どこにもないという前提でつくっているんですけど、中に入れるフォアグラや白餡は、単体で、それ自体は世の中にあるわけです。

例えば、僕が今まで食べた、一番おいしい白餡よりもおいしく白餡をつくりたいと思うけれど、そもそも「おいしい」の指標がなかったら、僕自身わからないですよね。お客様の方が絶対多く食べ歩いているので、「あそこの白餡の方が、もっときめ細かくておいしかった」と思われてしまったら、それを超えるようなものをつくれません。お客様の経験値を超えるものをつくっていくためには、自分がおいしいものを知っておく必要があります。

クリエイティブなイメージを投影させた、本物そっくりの『Apple』は、皮をむくデモンストレーションも。
フォアグラを白餡で包み、酸味のアクセントに青リンゴのグラニテをかけ、下にリンゴ酸のパウダーを敷いた。

――そのまま、好奇心のおもむくままに旅をしながらいろいろなお店で働いて生きていくやり方もあったと思うのですが、腰を据えて自分のお店をオープンする、非常に責任のあることでもありますし、これをやろうと考えるに至ったのは、どんな理由からですか?

そもそも、日本に帰ってきたのも、3年前のコロナ禍のロックダウンがきっかけです。当時はペルーの【セントラル】で働いていたのですが、ペルーにいても当時お店は営業できず、必要最低限の外出しかできなかったので、仕方なく帰国しました。その後、ありがたいことに日本でフリーの料理人としてお仕事の依頼をたくさんいただいて活動していました。

出張料理やイベントはもちろん楽しいのですが、残念だったのは、1回限りなのでクオリティが安定しないこと。そこにわだかまりを感じるようになりました。もちろん、その時は全力で料理をしますし、自信を持って料理を出すんです。でも、お客様にお出しして召し上がっていただいた瞬間に、「もっとこうすればよかった」という思いが湧いてきて。「このクオリティでお客様に出して、お代を頂いていいのかな?」と。

自分でそれが、すごくダサいなと思ったんですよね。でも、自分の店ではないから、それをすぐに改善することができないのが悔しくて。さらに上を目指していくなら、もう自分のお店をやるしかない、と。あとは、やはり自分でお店をやらないと、業界から認めてもらえないような気もしていました。

チームで実現する「旅」と「夢」

インテリアのテーマは、「輪廻と時の旅」「一万年前と一万年後」。石と木と骨など、時をこえて残る天然素材が中心。

それから、レストランは料理だけではなく、空間やサービスも大切。僕一人ではなく、いろんな人を巻き込んで楽しい世界をつくっていきたいな、と思った時に、結局レストランを経営するしかないなと思うようになりました。今まで一人で旅をしてきたので、これからはチームとして旅をしていきたいなと思っています。

――具体的には海外でポップアップをするなどですか?

何でもいいですね。それこそ日本国内でも海外でもみんなで行って食材を探して、それを持って帰ってきてここで表現するのも旅ですし、コラボでもいいですし、どんな形であれ、そうやっていろいろ動き続けたいです。店を出てポップアップした時の、その時しかできないおもしろさと、持って帰ってきてクオリティが高いものとしてお店で表現する、その両方が好きですし。福岡は空港から市内が近いので、昔一緒に働いて、今は世界各地でシェフをやっている友人たちとのコラボもしたいですね。

――今、未来の姿や夢をどんなふうに描いていますか?

個人的な夢は、煩悩にまみれている(笑)からたくさんあるんです。欲しい車もありますし、欲しい時計もあります。でも、本当に欲しいものを手に入れるまでに、中途半端なものは買わないようにしようと決めています。お店としての夢は、僕自身はこのお店で誠実に目の前のお客様に料理を出し続けていくこと、そして今一緒に働いてくれるみんながそれぞれに成功していくことが一番嬉しいですね。最終的に、ロブションさんのように、うちで修業した皆が世界で活躍してくれる。それが、僕が目指す成功かな、と思っています。

撮影 / 本廣 訓 取材・文 / 仲山 今日子 2024.1.13

味わいたい至極の逸品

『バターエイジドビーフ』

料理の中には、食材の段階から生産者とともに仕立てを考えるものも。メインの肉の種類は時によって変わるが、注目したいのは、愛媛県のゆうぼくの里に依頼し、【フェーヴィケン】流の、肉にバターを塗ってエイジングする独自の手法「バターエイジング」を2カ月ほど行った乳牛。骨付きのまま伊勢のマルモ製炭所の備長炭で3時間半ほど骨伝導で火を入れた後、たっぷりのバターとともにフライパンで温め、最後にこの牛が食べていた稲と藁の煙と炎で焼き上げる。

大野 尚斗

1989年生まれ、福岡県出身。元バッグパッカーの両親に連れられ、幼い頃から海外へ。高校を卒業後、米の名門料理学校CIAで料理を学ぶ。シカゴの三つ星店【アリニア】、二つ星のスウェーデン【フェーヴィケン】、世界No.1レストランになった、ペルー【セントラル】など、数多くの海外著名店で研鑽を重ねる。2020年コロナ禍で帰国後、故郷福岡に2023年6月に【Syn】開店。
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