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行天 健二 氏行天 健二 氏行天 健二 氏
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「デザイナー」として、宝石のような鮨を世界に発信する

【Sushi Hōseki - Kenji Gyoten】行天 健二

世界9ヶ所に展開するラグジュアリーホテル、ブルガリ ホテル。その中の鮨店が【Sushi Hōseki】だ。2023年4月、日本に初上陸したブルガリ ホテル 東京では、世界初、福岡のミシュラン三つ星鮨店【鮨 行天】の行天健二氏とのダブルネーム【Sushi Hōseki - Kenji Gyoten】としてスタート。器はすべてアンティークで、室礼も本物にこだわる行天氏が、今回は「握り手」ではなく、「デザイナー」のような立場で総合的な体験としての鮨を演出する。鮨屋に生まれ育ち、家族経営の温かさを知る行天氏。伝統技法を次世代に繋ぐ、人材育成のための指針、自らの鮨で大切にしていることとは。

Interview

【Sushi Hōseki - Kenji Gyoten】と【鮨 行天】

藍染めの麻ののれんは海を思わせる。「上質なものだけを身近に置くことで、自然と審美眼が磨かれる」。

――福岡で究極のラグジュアリーを追求する行天さんですが、ホテルの鮨店の監修は初めてだそうですね。ブルガリ ホテルとのお仕事を受けると決めた理由について教えていただけますか?

まず、お鮨屋さんの「宝石」という名前を聞いたときに、原始から生態系ができて、それが地球上でどう変化してきたかについて、私自身もちょうど考えていた時期と重なったんですね。魚は長い年月をかけて進化した生態系の一部。鮨の赤身はルビーのよう、だとしたらダイヤモンドは何なのか、などと考えていたのです。また、40歳を過ぎて、ちょうどジュエリーという言葉が合う年齢に近づいてきた気もして、「宝石」という店名も気に入りました。

さらに、皇居を望む東京駅の目の前という素晴らしい立地で、お仕事をさせていただくこともありがたいことですし、ホテルの総支配人の田中雄司さんともいろいろお話をさせていただいて、「雄司さんについていきたい」と思い、決断しました。

ゆったりとした、樹齢180年の奈良檜のカウンター。江戸ガラスなど、江戸後期のアンテークが揃う。

――この【Sushi Hōseki - Kenji Gyoten】と、普段行天さんがいらっしゃる【鮨 行天】の違いとはなんでしょう?

【鮨 行天】は、行天健二がすべてつくって、握りもする。【Sushi Hōseki - Kenji Gyoten】っていうのは、仕入れは私で、当然仕込みも教えてはいくんですけど、行天健二が考えたことを僕が期待をしているスタッフがすべてやってくれる、というところが違います。

――この【Sushi Hōseki - Kenji Gyoten】の料理長は、都内の有名店で副料理長を務めていた清水拓郎さんです。自分の代わりに大切な仕事を任せる方を、どのようにして選ばれたのですか?

面接に来ていただいて、「かつらむき」をお願いしました。料理人としての基礎と所作を見させていただいたときに、仕事の仕方がとても綺麗だったので、彼にお願いしたいと思いました。

「自分のスタイルを表現できる次世代の鮨職人を育てたい。しっかり教えた後は、きちんと任せる」。 左は料理長の清水拓郎さん。

――実際の料理づくりはどんな形で行っているのですか?

料理づくりは、基本的に私が全部トレーニングをしてきましたし、私の考えを表現してもらえると思っています。でもそれだけではなく、世界観は変えずに、自分のカラーを出してもらいたいと思っています。やりたいことをやってもらい、失敗した面をフォローするのが私の責任だと思ってるので、基本的に何でも自由にしてもらっているとは思います。毎日清水さんとはやりとりしていますしね。

材料は魚と塩、それだけ。余分なものを使わなくても、技があれば、深い味わいを生み出すことができる。

――ドバイの【Hōseki】とは異なり、店名に名前が入っていますね。

そうですね。いままでにない形式だと思います。ハイジュエラーが鮨店を東京に持ってきて、そこを“鮨店をプロデュースをする”形にするのは。だから、私自身も自分で責任をとるという面で“Kenji Gyoten”という新たな自分のブランドをつくらせていただいて、デザイナーをやっている感覚です。普通の鮨屋という考えよりも、【Sushi Hōseki - Kenji Gyoten】に行くとお鮨だけじゃなくて会話も楽しめるし、おしゃれも楽しめる。また行きたくなるお鮨屋さんであってほしいですね。

鮨職人としての原点

江戸前鮨は、手をかけた鮨。シャリの硬さや温度だけでなく。器選びや空間作りに至るまでが「鮨の味」。

――ご実家が鮨店で、おいしい魚には子どもの頃から馴染みがあったとか。

うちは昭和5年くらいから旅館を経営していて、昭和20年に祖父母が鮨店を始めたんですね。私自身は気づいたら鮨屋にいて、気づいたら宴会場にいて。いつから酢の香りをかいで、いつから鮨が身近だったの?と言われても覚えてないくらいなんですよ。

学校帰りに店の前を通ると、祖母がパッと出てきて、「ちょっと手伝いなさい」って言われて。キッチンに入ったら職人さんが卵焼きを焼いていたりとか、エビを茹でていたりとか。うちは高級店ではなかったので、宴会・仕出し・お座敷・カウンター・出前のすべてをやっていて、だんだん物心がついてくると、今日は宴会があるんだなとか、今日は出前が多いんだなとか、今日はカウンターが忙しいんだろうなっていうのが自然とわかってくるんですよ。だから「仕事をしなさい」って言われる前に自然と手伝うようになって、目の前の魚がいいものか悪いものか、冷蔵庫の掃除をしながら自然に覚えられる環境でした。

あと、高級食材が常に身近にありましたね。

――羨ましい環境です(笑)

例えば、小学生の時に家庭科の授業でちらし鮨をつくることになって、家から材料を持って来なさいと言われたんです。おじいちゃんは張り切って、ウニやアワビを持たせてくれたんです。自分にとっては家にある“普通の食材”。でも、カニカマとかを持って来ている同級生からは「なんでアワビがあるの?」なんて言われたのがすごく恥ずかしかったんです。泣いて帰って、祖父に文句を言ったら、祖父は黙って上を向いて(笑)。だから、アワビやウニが高級という感覚がいまだになくて、単に希少だから高価なものなんだ、と。むしろ仕事をした小肌やアジに価値を感じてほしいとは思いますね。

赤ウニの名産地として知られる天草でも、苓北町の淡水と海水が混ざる汽水域でとれる、希少な極上品。

――修業先は東京の【あら輝】。荒木さんから一番学んだことはどんなことですか?

いまの僕の生き方すべてだと思います。僕自身が結果を出すことと、人を育てていくことで、恩を返していきたいです。いまだに自問自答していますが。荒木さんは言葉数も少ないし、よく見て学ばなくてはいけなかったのですが、素晴らしい方なのです。特にお鮨に対する情熱は世界でトップクラスだと思っています。

――修業後、実家の跡を継がないで独立されたのは?

最初、跡を継ごうと実家に帰ってきたのですが、自分のやりたいことと当時実家がやっていたことが違っていて、地方なのでシャリもネタも当然大きい。でも、自分は東京のスタイルの酢飯が小さい握りをつくって、握りで評価されたいと思っていました。そこで、祖父に相談したら「それじゃあうちの商売はできんよ」と言われて。でも、それを押し切って自分のスタイルで鮨を出していた私に対して、祖父は文句一つ言わなかったんです。

結果的に、実家を出て自分の店を出すことにしましたが、祖父の姿は私の考える理想の経営者ですし、私がいまの従業員を育てるときに心がけていることです。自分の子どもに対する気持ちで接していますし、ある程度の枠内ではあっても、そのときにその人がやりたいことを思いきりやってもらって、僕が責任をとる。その原点には、孫の成長のためにと我慢して支えてくれた祖父の優しさがあります。それと同じで、従業員がミスをしたときは叱るのではなく、「なんでこうなったの?」と聞く。それが“いまの時代の育て方”だからではなくて、私がそういう風に祖父に育ててもらったから。当時、頭ごなしに叱られていたら、こういう育て方にはなってないと思います。

従業員には、「これを自分の家族や大切な人に出せるか考えなさい」と、いつも言っています。

その審美眼で知られる行天氏は着物にもこだわりが。「職人で『デザイナー』。新しい鮨職人の形をつくりたい」。

――家族の温かさが原点にあるのですね。そして【鮨 行天】での三つ星、どんなことが決め手になったと思われますか。

「どうしたら三つ星を獲れるのですか?」とよく聞かれるのですが、何が決め手か考えて、逆算して三つ星を獲ろう、と考えるよりも、個性を出していくことの方が重要だと思います。私自身が、ミシュランの三つ星って何なんだろうと、当時三つ星だった【アストランス】のパスカル・バルボシェフに聞いたことがあるんですよ。そうしたら彼は、「料理を自由にしていいパスポートだ」とおっしゃったんです。

僕にとっての鮨の三つ星は、「普段は経験ができないこと、出会えない魚に出会える場所」。三つ星ってどうしたら獲れるんですか?と聞かれたら、一番の基本は掃除だと思うんですよね。綺麗にしてる鮨店の場合は、常に魚の匂いがしない。それをきっちりとやった上で、所作だとか、それぞれの個性を出していけばいいのだと思います。

――世界的に、いまどんなお鮨が人気なのでしょう?

鮨ネタで言うなら、間違いなく第1位はウニ。理由は口どけの良さです。海外店の立ち上げを手伝ったときに思ったのが、咀嚼をして、酢の物を噛んで、シャリと混ぜるって難しいんですけど、ウニとかのどぐろとか柔らかい魚ってご飯と混ざりやすいので、味わい方がわかりやすい。逆に、光り物の酢締めはあまり好まれない。新鮮でないから酢で締めたと考えられてしまうからです。あと、皮がついていると鱗がついたままだろうという考えが、海外にはまだありますね。それもだいぶ変わってきてはいますけれども。

「赤ウニの味と香りを思い切り楽しんでほしい」と、ウニを何段にも重ねた握りを、一口で頬張る贅沢。

――やはり海外のお客様は、脂の多いのどぐろとか金目鯛といった魚が好まれますか?

そうですね。間違いなく海外では脂がある方が分かりやすいというか、脂がない魚でも持っている旨み、科学的にいうと核酸系のイノシン酸を理解してもらうのは難易度が高いと思います。アミノ酸系のグルタミン酸の旨みの方が分かりやすく、海外でも人気がありますね。

――今後海外での展開も考えていらっしゃると思います。外国人のお客様への対応はどう考えていますか?

自分のカラーを出しながら挑戦していくということは大事だと思いますし、海外で日本流のやり方をすべて通す必要性はないとも僕は思っていて。もし日本流を召し上がりたいのであれば日本まで来てください、と。ミシュランガイドのスタンスもそうですよね。

――ご自身としてはこれからどんなことを展開していきたいですか?

そうですね。日々挑戦はしています。いまの平均的な寿命は70〜80年、一人の人間がすることなのでその中で何ができるか、ある程度は決まっていると思うんです。だけど昔の人を見るとね、2年や3年で革命を起こしているから、すごいですよね。そんな時代の方たちが残してくれたものを、私たちが次世代にどのように残していくか、は考えています。

「ワイングラスのように、日本酒の香りが楽しめる、芸術性の高い和の器」。と開発された「酒碗」。

――次世代につなぐ活動を、これからも続けていかれる。

「生き残れる職人」ではいたいです。いま料理人もタレント化してきて、人気商売でもありますし、フォーカスも当たりやすくなってきているので。コロナ禍でだいぶ時代は変わったと思うんです。世代交代もありましたし。ありがたいことに、うちのお店も十数年ずっと予約で埋まっています。

この人気がいつまで続くのか、それは時代が決めること。自分自身のいまの役割は、いまできることに挑戦して、次世代につなげていくことだと考えています。フランス料理には、アラン・デュカスシェフやジョエル・ロブションシェフのように、プレイヤーではなくプロデューサーとして活躍している人たちがいる。鮨の世界で、自分らしい個性を表現していく、そんな風になっていければと思っています。

――また、自分のスタイルと100%同じものを、ではなく、自分のスタイルを伝えた上で、その先のクリエイションは人に任せる、というのは、ある意味究極の進化の形とも言えますね。自分だけのアイデアではなく、他のアイデアも取り入れることで、選択肢が増え、時代にあったバラエティが生まれてくる。これからのご活躍も楽しみにしています。

撮影 / 今井 裕治 取材・文 / 仲山 今日子 2023.7.24

味わいたい至極の逸品

『小肌』

「シンコが好まれがちですけれども、時期によっては普通のサイズの方が貴重で高価だったりする」という小肌。赤酢で締めて、同じ赤酢の酢飯で。酢飯の握り方に高さをつけて、かみきらず一口で食べられるサイズ感にこだわり、咀嚼が簡単にできるように。赤酢ならではの奥行きのある酸味と複雑味、米の甘みを引き出した、砂糖を使わない酢飯が江戸前の仕事を伝える。使用している米は大粒の品種だ。

行天 健二

1982年、山口県生まれ。祖父が鮨職人という家系に育ち、幼少期から鮨が生活の一部として育つ。家業を継ぐか悩み、18歳の時に、ニュージーランドにて自分探しの旅を経験。鮨を生業にする覚悟を固め、21歳で都内の名店にて研鑽を積む。その後、2009年に故郷の山口県下関市で開業し、福岡移転は2012年。「ミシュランガイド福岡・佐賀2014」にて、わずか2店舗しか成し得なかった三つ星を日本最年少で獲得。2023年、ブルガリ ホテル 東京内にある鮨店【Sushi Hōseki - Kenji Gyoten】の監修に。
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