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  4. 『忘却のサチコ』/人は忘れるから生きていける――ポジティブに暮らすヒントは“美食”にあり

忘却のサチコ

人は忘れるから生きていける――ポジティブに暮らすヒントは“美食”にあり

作品データ/『忘却のサチコ』 作:阿部潤 『週刊ビッグコミックスピリッツ』連載中、既刊7巻(2016年8月現在)

“バリキャリ”アラサー女子の人生を狂わせた、結婚式での悲劇

 忘れたいのに忘れられない…。気に留めないつもりで明るく振る舞っていても、ふとした瞬間によみがえっては心に暗い影を落としてしまう…。

 そんな悲しい思い出、きっと誰にだってありますよね。

 たとえば“失恋”。

 みなさんだったら、何を気晴らしの材料にします?

 普段は嫌々こなしているだけの仕事があったとしても、一心不乱に打ち込んでみれば少しくらい見える景色が変わってくるかもしれません。また、早々と別の恋人を見つけ、記憶の“上書き保存”を試みたっていいのかもしれません。

 ――しかし、マンガ『忘却のサチコ』の主人公は、失恋を機に“美食”へと傾倒するようになりました。その経緯をみなさんにご紹介しましょう。

 29歳の佐々木幸子(以下、サチコ)は、出版社の文芸編集部でバリバリに活躍する優秀なキャリアウーマン。旅先で出会った3つ年上の会社員・俊吾と、2年間の交際を経たのちに結婚式を挙げます。

 “結婚”という人生の一大イベントでさえ、サチコにいわせれば「妥当すぎるくらいに妥当に、普通のことしただけ」。さらには「経済的」「社会的信用」といったワードで結婚のメリットを語り、そのまま順風満帆な人生を送るはずでした。

 …ところがなんと、サチコは新郎の俊吾に逃げられてしまったのです。よりによって、結婚式の最中に。

 手元には「サチコ、すまない」という淡白な手紙しか残されておらず、あまりにも唐突な展開。サチコの母親は泣き始めてしまいますし、来賓たちもざわつきます。

 その一方で、当の本人は全く動揺する素振りを見せません。式の翌日もピンと背筋を伸ばし、どこ吹く風といった様子で会社のデスクに向かいます。

「ああ、仕事のデキる人はやっぱりメンタルが強いんだな…」と、みなさん納得できるでしょうか?

 いやいや、いくらマンガといえども、ここまで平静を装えるのは不自然ですよね。

 精神の乱れをサチコが露呈するのに、さほど時間はかかりませんでした。だって、編集長に提出する書類のあて名を無意識に「俊吾様」と記してしまったんですから、どう考えても重症です。自分を捨てた男の存在を思いっ切り引きずっています。

 すぐに帰って休むよう編集長に指示されたサチコは、街を歩きながら「私、平気なのに」と自分に言い聞かせていました。職場のみんなに気を遣わせてしまったことを悔やんでもいました。

 ですが、婚約者の逃亡に自分がショックを受けていることをひとたび自覚すると、まるでダムが決壊したかのように街中で号泣してしまいます。「俊吾さんのこと…こんなに好きだったなんて…」と。
      

“美食”は“至福”をもたらし、そして“忘却”へと誘う

 失意のまま、とある定食屋を訪れたサチコ。いつも栄養ドリンクなどで手早くランチを済ませているサチコ(※同僚の目撃談による)にとっては、これだけでも非常に珍しい出来事だといえます。

 店員や他の客の顔のみならず、店内のポスターや置き物までもが俊吾に見えてしまうという恋わずらいに頭を抱えていると、やがて目の前にサバの味噌煮定食が運ばれてきました。

 これに箸をつけたサチコの感想は、

「サバ味噌って…こんなにおいしかったかしら…?」

 サチコはもう、手と口の動きを止めることができません。

 サバとごはんをぱくぱくもぐもぐ、味噌汁をズズッ。

 味噌ダレと白米の相性を称賛し、和食における味噌汁の役割に思いを巡らせ、しまいには仏のような悟りの表情を浮かべます(ただし、口元にはよだれが垂れていましたが)。

 ――そう、サバの味噌煮定食と向き合っている間、サチコは間違いなく俊吾のことを“忘却”していたのです。

 これをきっかけに、サチコは「おいしい物を食べる⇒俊吾さんを忘却」という人生の指針を見出だすことに成功!いわゆる“やけ食い”をしている訳ではありませんし、こうやって楽しく悩みを解決できるなら、まったくもって健康的でしょう。

 とはいえ、何か食べるたびに「こりゃ絶品だ!」と舞い上がれるほど、人間の味覚は単純ではないはず…。事実、サチコはサバの味噌煮定食を2日連続で食べても、初日に匹敵するトリップ感を得ることができませんでした。

 そこでサチコは、おいしい食べ物をおいしく食べるための努力に取り組みます。

 取材先の長崎で名物のトルコライスと出会ったときは、部活上がりの中学生と同じくらいの空腹状態でがっつくべきだと判断し、地元の少年たちに交ざってランニング。

 担当の作家が原稿を仕上げるのを飲まず食わずで一晩待ったときは、刑務所を出たばかりの高倉健が食堂へと向かう映画のシーンに自分を重ね合わせ、昼のうちからビール・ラーメン・カツ丼を同時注文。

 …いかがです?

 みなさんは「食事のためにそこまで自分を追い込まなくても…」と、サチコを笑い飛ばすでしょうか? それとも呆れ返るでしょうか?

 けれど、サチコはいたって大真面目。失恋を乗り越えるためには俊吾を忘却しなくてはならず、俊吾を忘却するためには美食を極めなくてはならない――つまりサチコにとって美食とは、今を前向きに生きるためのベストな選択。

 “美食”がテーマなのに泥臭さを感じてしまうのが『忘却のサチコ』の不思議なところかもしれませんが、きっと、こういうライフスタイルがあってもいいんですよね。

 やり方が暑苦しくたって結構、他人には理解されなくたって結構。辛い思い出を忘れられるくらい熱中できる“何か”を、みなさんもサチコみたいに新しく見つけてみませんか?
      

<文/森井隆二郎(A4studio)>

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