第15回:刺激的なアメリカ“遊学”、いよいよ修業スタート
大学卒業後はアメリカに“遊学”。ロスの鮨屋でアルバイトをしたが、担当したのは『天ぷら』。
アメリカの楽しさにのめり込んでしまう青木氏だが、その一方、日本にはないアメリカ独自の食文化に感銘を受ける。帰国後、まったく寿司を握らせてもらえなかった【与志乃】での2年間の修業。まったく寿司を握らせてもらえなかった修業時代の後に急に訪れる父の病気。そのとき、鮨職人青木のこれからの道はどうなるのか。
アメリカで身に付けた食の柔軟性
――アメリカでの遊学を2年間、経験したわけですが、アメリカから帰国したら、鮨屋で働くことを決めていたんですか。
青木:はい。それは決めていて、修業の前に留学をしたいとも父にも伝えていました。でもクラブに行ったり美術館に行ったりとアメリカの楽しさにのめり込んでしまい、父にアメリカで寿司の修業をしてもいいかと聞いて、怒られましたね(笑)。
――しかしアメリカでの遊学により、青木さんの鮨への価値観というものが変わったと思いますが。
青木:今ではアメリカでの経験が生きてますね。遊学の経験から、料理に世界やアメリカの食材を取り込むことを考えました。今のお店では、100%のうち80%は江戸前の料理、20%は変わったものを取り扱うようにしています。『牡蠣の握り』といった変わったものもつくったりするんですけど結構おいしいんですよ。
【与志乃】での2年、父との修業
――アメリカでの遊学が終わり、【与志乃】さんで修業を始めたと聞きましたが、そこで寿司を握り始めたということですか。
青木:寿司は握らせてもらえませんでした。とにかく掃除をして、立って見てることが多かったです。【与志乃】さんの店内は、1階が仕込場で2階が客席になっているんですが、一回も客席に行かせてもらえませんでした。
――2年間はずっとそのような修業ということですか。
青木:ほとんどがそうでした。2年間の修業が終わり、父のところで修業を始めたんですが、父のお店でも最初の1年は何もさせてもらえなかったですね。その1年後にやっと余ったシャリを使って練習することを許されました。
修業開始と父の病気
――麹町ではそんな感じの修業ということですね。
青木:そうです。麹町では、お客さんにお鮨を出すことは一度もありませんでした。銀座のお店に移店したときにシャリを本格的に握り、初めてお客さんに出すようになりました。でも、その頃にちょうど父が病気にかかってしまったので自分がやらないといけないと思いましたね。