第04回:終わらない挑戦
12年間務めた【リッツカールトン・ワシントンD.C.】を離れ、ヘッドハンティングされたシリコンバレーのレストランへ。さらにカンザスでホテルマネジメント、ケープコッドのリゾートホテルの料理長と、アメリカ各地を転々とする。そんななか舞い込んできた【マンダリンオリエンタル東京】立ち上げの話。21年暮らしたアメリカを後にし、山本シェフは日本で勝負することを決意する。そして、アジアを舞台に活躍する現在の仕事、そしてそのやりがいとは。経営者として、そして料理人として、挑戦をし続けるシェフの素顔に迫る。
またもや、ヘッドハンティング
――2000年から3年半暮らしたケープコッドを離れて日本に戻るわけですが、きっかけはなんだったんでしょうか。
山本:ケープコッドにいたときに【ザ・リッツカールトン・フィラデルフィア】の総支配人が電話をかけてきて、「じつは我々は、【マンダリンオリエンタル】をつくるんだ。一緒にやろう」と。電話の向こうから「我々の仕事は都会にいてトレンドを追って、新しいことを作っていくことじゃないか?」と言ってくる。僕は痛いところを突くなと思いました。
“楽しい”を越えた「マンダリン」での日々
――それで2005年に日本へ戻ってこられます。任されたポジションは「総料理長」。
山本:「マンダリン」では、シェフとディレクターが2人でコンセプトをつくるんです。ひとつひとつ自分の思いを入れてゼロからコンセプトを決めることができます。子どもがおもちゃ屋で「全部あげる」と言われたみたいな感じですね。マンダリンは、かけているお金の額も違いますし、楽しいの域を超えていましたよ。
――秀さん、どこまでも楽しんでいますね。
「日本に生まれた」ということが恵まれている
料理人としては僕より長けた方はたくさんいます。でも僕には美味しいものがわかる。すごく良かったなと思うのは、自分が日本人に生まれたということなんです。食材はトータルで見たら日本が世界一です。だから若い人には、ひとつのところに閉じこもらないで自分で機会をつくって出て行って、もっとこの食文化を広げていってほしい。日本に生まれ育った、それだけでひとつの才覚を持っていると思うのです。