第73回:奥田氏の幼少期から料理人になるまで
野球やサッカーなどに打ち込んでいた幼少期時代。「努力すること」を美徳としていた父の教えもあり、自分自身にも厳しく、つくる事が苦手でコンプレックスだったにも関わらず、あえて技術職である料理人の道を選び、地元の一番厳しい料理屋へ就職。25歳で「独立」する事を決め、20歳の時から独立に必要なものを学びだした。しかし、「独立」することしか頭になかった奥田氏は、ある時伊勢志摩ホテルの高橋シェフのある言葉で料理人としての考え方を改め、そして、あの徳島の名店【青柳】の門をたたく。
逆境こそ成功の近道
――進学校におられたのに、割烹旅館【喜久屋】に就職されたんですよね。
奥田:つくことは一番苦手で、小学校の頃からとてもコンプレックスだったんです。なので一番苦手なことを仕事にしようと思ったんですよ。一度でもいいからものをつくって人に褒められたかった。料理は毎日やればもしかしたら自分にも出来るんじゃないかと思ったんです。どうせやるなら一番厳しくて辛いところを教えてくださいとお願いして紹介してもらったところが【喜久屋】だったんです。
――自分にも厳しい方なんですね。
奥田:野球をずっと父親から叩き込まれていて、努力する事、頑張る事、苦労する事は自分にとって一番の美徳でしたから。
もう一度、料理をやり直す
――多感な頃の奥田さんが非常に影響を受けられた方がいらっしゃったんですよね。
奥田:私は25歳で独立するという「独立すること」が目的だったんですが、そんな時に伊勢志摩観光ホテルの高橋シェフの講演での「私は伊勢志摩に生まれて、伊勢志摩の海の幸しか使わない。なぜなら目の前の英虞湾を愛しているから」という言葉に衝撃を受けました。料理ってこんなに深いものだったんだということに気付かされたんです。私は上っ面だけで「独立すること」が最後のゴールだと思い込んでいて…。それから【青柳】の小山さんの『味の風』という本を読んで、ここでもう一度立ち止まらないと私の人生先急いでいるだけ、もう一度やり直そうと思い門をたたいたのが徳島の名店【青柳】さんでした。