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宮﨑 慎太郎 氏宮﨑 慎太郎 氏宮﨑 慎太郎 氏
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不器用だからこそ。コロナ禍に 安定した肩書を捨て、46歳での転身

【アマラントス】宮﨑 慎太郎フランス料理

「街場」のシェフから、五つ星ホテルのフレンチのメインダイニングの総料理長へ。宮﨑慎太郎シェフの転身は驚きをもって迎えられた。ザ・リッツ・カールトン東京の【アジュール フォーティーファイブ】に、ミッションであったミシュランの星を6年連続でもたらしたのち、2021年、46歳でついに独立して【アマラントス】をオープン。100%自己資本、わずか12席のレストランだ。コロナ禍で先の見えない時代に、ホテルでの安定した立場を捨て「一生ストーブの前に立ちたい」と自らの腕一本に賭けた。13年間、ミシュランの星を受け続けた華やかな経歴の裏側には、不器用だった過去があった。そんな宮﨑シェフが「信じるもの」とは。

Interview

「僕は仕事ができない」

「お前は仕事ができない」と言われ続けた時代があったからこそ、今がある。面倒だから手を抜く、ということは絶対にない。

――安定した立場を捨てての独立、驚かれた方も多かったのではないでしょうか。きっと深い思いがあって独立にいたったのかと思うのですが、この【アマラントス】という、ギリシャ語の名前に込められた思いはなんだったのでしょう?

花言葉からいろいろ店名を考えていたときに、アマランサスの花に「しおれない」「我慢強い」「永遠の」という意味があると知りました。僕の料理人人生の、修業の時期にぴったりだなと。厳しい修業時代を経てキャリアを積んで、自分のお店を開いて、ここでしぼむわけにはいかない。ここからもう一花咲かせようっていう、そういった思いを込めてアマランサスっていうものにしようと。

ギリシャ語だと「アマラントス」で、そのギリシャ文字の字体も非常におもしろかったものですから、いわゆるほかとの差別化ということも含めて、あえてギリシャ文字を使用し、ギリシャ語読みで「アマラントス」にしました。この名前、なかなかないんじゃないかなと思って、気に入っています。

ここからが、集大成としての、本当の舞台。永遠に咲く花に、ずっと厨房に立ち続ける、自身のありようを重ねた。

――宮﨑シェフといえば、独立前に総料理長をしていた、リッツ・カールトン東京の【アジュール フォーティーファイブ】に星をもたらすなど、輝かしい経歴で知られています。修業時代の大変さというのが、あまり想像がつかない人も多いのではないでしょうか?

じつは、自分はすごく仕事ができないっていうのが、心の根底にずっとあって。昔の僕を知ってるシェフからもよく言われるんですけど、僕は本当に仕事ができない人間で。諸般の事情で、レストランの前に、パティシエとして働いていたことがあるのですが、同じプチガトーにイチゴとミントの葉を同じ数だけ渡されて、そこで一緒に同じ条件で盛り付けをすると、僕のは明らかにセンスがないんです。

そこのシェフは、もう苦笑いしながら、「まあ、宮﨑大丈夫だ」と。先輩も「センスはなくても、磨けるから。お前はもう、センスはない、仕事もできないから、仕事のできる人、盛り付けがきれいな人をとにかく真似ろ。ひたすら」。それが、僕の中に強烈にずっと残っているんです。だから、基本はとても大切にする。先輩に教わったことを、なにか理由もなく崩すことは絶対ないです。

たとえば、尊敬する先輩たちからは、アセゾネ、つまり塩の量の大切さとかを教わった。「塩は絶対にしすぎるなよ。しょっぱかったら終わりだからな」と言われた。その言葉をどう考えるか。じゃあ、この魚ってだいたい何%くらいがちょうどいいんだろうとか、このお肉ってどのタイミングで、どういう塩をするんだろうとか。で、なんで肉は切った断面に塩をするんだろう。「ああ、そうか。中まで塩が入っていかないからなんだ」とか、そういうことを考えて、下準備をすごく大切にするっていうところに行き着いた。

不器用だからこそ、教わったことをまず手を抜かずしっかりやる。それをおっくうだと思ったりすることは絶対になくて。それはいまも自分のスタイルの根本になっています。

――自分は仕事ができないという思いが、このやり方を続けていれば大丈夫、と変わったきっかけはなんでしょうか?

20代後半になって、麹町のフレンチ【オーグードゥジュール】で、2番手になったときに、毎日満席で、こなす仕事の回数が増えて、だんだんとスムーズに物事ができるようになりました。そこで初めて、「あ、料理人として、なんとかできているな。でもフランス料理のシェフとしての将来のためにあとなにが必要かな」と考えて、29歳の時にフランス行きを決めたのです。

「体験しなければわからない」と決めた
フランス行き、そしてミシュランの星

――30歳を目前にしてのフランス行き、そろそろ独立を考える人もいるタイミングではありますよね。

「行っても意味ないよ」という意見もあったけれど、それは行ってみて、「行っても意味なかったよ」っていうのと行かずに、「いや、いま海外に行く必要ないよ」というのと、それはまったく違うなと思ったんで、まずは行ってみようと。

――そうして、【ローラン】など、何軒かのパリの星付き店で修業されて、帰国後は丸の内【オーグードジュール ヌーヴェルエール】のシェフに就任。1つ星を7年連続で獲得されますね。

ぼくがラッキーだったのが、帰ってきた年が、ちょうど東京でミシュランが始まった年だったんですね。だから、1年目でいきなり星をいただけて。それが意識が変わるきっかけになりました。商業施設のレストランだけれども星をいただいて、もっと、もっと、パリで見てきたガストロノミーを表現しなきゃいけないと、毎日怒鳴り散らしながら、全力でやっていました。懐かしいですね。

パリのミシュラン2つ星店での同僚と、美術館内にあった【レ・ゾンブル】というレストランの立ち上げにも関わった。

――その後、リッツ・カールトン東京のフレンチのメインダイニング【アジュール フォーティーファイブ】の総料理長に抜擢されます。ホテルは通常、生え抜きのシェフを起用しますが、異例のケースと注目を集めましたね。改めて、どんな経緯だったのでしょうか。

丸の内の店で7年経とうとして、なにかもっと新しいチャレンジがあるんじゃないかなと考えはじめたときに、ザ・リッツ・カールトン東京から、メインダイニングで星をとってほしいと。ホテルで働いたことがなかったのが唯一の不安点でしたけれど、そのミッションにフォーカスできる環境であれば、これはおもしろいなと思いました。

――ホテルの料理のつくり方と、今のお店のようにカウンターでの料理のつくり方は、とても違うと思うのですが、ホテルではどういうことを学ばれたのですか?

スタッフの力を見極めて、適材適所のポジションに配置することや、サービススタッフとのコミュニケーションを強化しないと、本当にいい状態で料理が出せないとか、人との関わり方を、すごく学ばせてもらいました。

店の設計から自分で行った。大きな店ではないからこそ、細部にまで、使いやすさを考えたこだわりがある。

安定した肩書を捨てて選んだ
コロナ禍での独立

――安定したホテルの仕事を捨てて、あえてのコロナ禍での独立。リスクを取ってでもやると決められた背景には、どんな思いがあったんですか?

ホテルで結果を出しつつも、少し気になっていたのは、お客様との距離。キッチンからフロアまでの動線が長かったので、いつの日か最高のものを出そうじゃなくて、どうやったらお客様の元に行くまでに、より温かくとか、より表面が乾かずとか、どういう方法にしたらそうなるかってことばかりを考えてしまっていました。

それと、やっぱり料理人でありたかったので、ホテルのキッチンで総料理長っていうポジションにありながらも、火の前、ストーブ前にいることにこだわりがあった。もちろん人それぞれ考え方があると思うんですけども、自分はもう生涯、現役で、料理をつくれる人間であり続けたい。必然的に、もうそろそろ自分でお店をやるべきだなと。小さくてもいいからお客様との距離感をもっと近くして、自分でも「今日、こういうのが入ったんで、おいしいですよ」、「いまこのタイミングで食べてください」って説明するとか、そういう楽しさを選びたくなってきた。

【アジュール フォーティファイブ】では、就任して1年後に星をいただいて、もっと上を目指そうと工夫をしていくなかで、ある程度やりきったという思いもありました。ちょうどホテルで7年過ごして、そろそろ自分の城を持とうかなっていう思いで、このお店を始めました。

美食の世界への扉。多様な経歴があるからこその答えは、細かく目が届くサイズの店で、妥協のない料理を出してゆくこと。

――その、一生料理人でいたい、ストーブの前に立っていたい、という強い思いはどこから生まれてくるんでしょうか。

元々、料理人になろうと思ったきっかけが、テレビ番組の『料理の鉄人』で、制限時間の中で、素晴らしい料理をつくり上げるっていうところに憧れがあったんです。自分もそうであり続けたい、といまも思っている。もう本当にそれだけです。

――そんな思いでつくる、ここ【アマラントス】のお料理とは。

集大成とまではいわないですけど、いままでの経験から、さらに目の前でつくることによって、本当にいままで伝えたかったおいしさが伝わるんじゃないかと思っています。たとえば、野菜一つとっても、届くたびに、辛味が違ったり、酸味が違ったり、水分量が違ったりと、それらを見極めながら、ちょっとずつ調整して、いろんなアプローチをしていく。手に取って、食材と会話をしながらその日の仕立てが決まる。そういう瞬間が毎日なんで、それがいまの楽しさの一つですね。

食材の声、お客様の声を柔軟に受け止めて、料理をつくってゆくスタイル。そのための引き出しは、十二分に準備してきた。

――長年のキャリアで多くの引き出しを持つからこその柔軟性ですよね。そして、自分の店ですから、仕入れの融通もききやすい。

野菜にしても、お魚にしても、豊洲だけではなく、産直であれば各地から朝の4時、5時くらいに、「今日はこんな感じです」と画像が送られてくる時代なので。それを見て「この魚はカルパッチョの方が合うから、今日の前菜はカルパッチョでなんかやろう」とか、そんなふうに、メニューづくりも柔軟にできます。

いま、世界情勢でヨーロッパのものが入りづらくなっていますよね。値段が上がっちゃったり、遠回りして運ばれるぶん、状態がちょっとよくなかったりする。それに、鳥インフルエンザの問題で、鴨やフォアグラが、手に入りづらくなったり。そういったことに直面しても、つねにポジティブに考えるようにしています。無理にヨーロッパ産の食材を使う必要はなくて、国産に目を向けて、日本のいいものを、よりアピールする機会だなっていうふうに捉えています。

これまでは、春になると、ヨーロッパからのアニョー・ド・レ=乳飲みの仔羊がもっと簡単に手に入ったんだけど、いまは日本の仔豚を使ってみようとか、北海道のミルクラムが入ってきたから、それでやってみようとか。ヨーロッパのと比べて国産の方がよいものがあったら、どんどん使っていく。お肉の質の違いを感じながら、「いま、この部分は日本の食材のほうが勝てるんだ」とか、「この部分はまだヨーロッパの方が強いな」とか。そうやって考えてゆく過程そのものを楽しんでいます。

どの料理も、手数を惜しまずつくられていることがわかる。元パティシエならではの、ろくろを使ったプレゼンテーション。

現在46歳。だからこそ見通せる
過去の料理と未来の料理

――食材に合わせてつくる料理。料理への向き合い方が、とても柔軟ですよね。

そうですね。それはお客様に対しても同じで、ぼくは「俺のこれを、このタイミングで食え、しゃべるな」みたいなタイプじゃないんですよ、基本的には。お客様がもし望むんだったら、もう少し料理を出して差し上げたりとか、次回はまた、もうちょっとおもしろいものやりましょうか、とか。あんまり、そんなことを望まれてないのかもしれないですけど、最後締めのラーメンをちょっと食べたいのであればつくっちゃおうかな、とか。そういうスタンスでやっているので、自分に合ってるんですよね。ホテル勤務の頃は、フランス料理で星をとるのが大命題で。みんなに「なぜこの料理なのか」、「なぜこのソースの量なのか」をプレゼンテーションしてました。フランス料理とは、ということをフランス人たちともいろいろディスカッションする、そういう日々だったんです。でもここでは、本当にお客様に合わせて、きっとこうしたら喜ぶよなって思うことが実行できる空間だと思っています。

フランス時代は、徹底的にフランス食材を食べ込んだ。当時日本ではあまり見かけなかったリ・ド・ヴォーもその一つ。

――フランスで求められる料理と日本で求められる料理。クラシックとモダン。それぞれ、いろいろな考え方がありますよね。

僕らが、パリで働こうと思っていた頃はちょうどソースがいらないとか、ソースが必要ないんじゃないかといわれ始めた頃で。でも、いまフランス料理っていったらソースが大事だよねとか、そういうふうに時代が移り変わるなかで、クラシックとモダンっていうのは、どちらかに偏り過ぎてもいけないし、自分がいちばんおいしいと考えるのは、いまどういうバランスなのかっていうことをお客様に表現するのが、非常に大事だと思うのです。クラシックを大事にしながらも、モダンなテイストも入れていく。極端なモダンではないんですけど、ある程度の軽さとか食べやすさというのは絶対必要だと思います。

その上で、日本の方はとくに、口の中で、いろんなフレーバーとか香りを察知する能力にすごく長けているので、少しハーブのアクセントと酸味を合わせて、複雑味もありながらおいしいと思わせるような、そういった料理が自分の料理だと思ってます。

ミルキーなリ・ド ・ヴォーは火入れも抜群。玉ねぎの甘みと香りに、ナスターチウムの辛みがアクセント。

――そのために大切なことはなんでしょう?

「おいしいとは何か」の本質をちゃんと見極めることでしょうか。料理には流行りももちろんありますが、おいしいってなんだろうっていうことを見間違えない。自分の舌を信じるしかないんですけど、結局は。いま、カウンター8席でやっているからこそ、できることだと思うんですけど、席数が多ければ多いほど、どこかのタイミングで妥協が出てきてしまう。

たとえば10名のお客様と、2名のお客様4卓を同時進行しているときとか、ほんのわずかかもしれないんですけど、ちょっとハーブの量が変わったり、ちょっとソースの量が多すぎたり。そういうブレがどうしてもあったと思うので、もうそれをいかに無くせるかってことだと思うんですね。

あとは、いまの時代って全部、画像に残る時代なので、盛り付けもいかにベストの状態に仕上げるかっていうのも、後悔しないために、すごく大事だと思っています。

――40代後半での独立。さまざまなキャリアを重ねてきたからこそ、できる料理とは。

われわれの世代だと、30代でシェフになって、当時はイケイケで怖いものがなくて。自分がつくったものが絶対うまいんだ、「これだよ」って信じている。それが過ぎて40代になると、今度はだんだん怖くなってくるんです。

過去の自分の料理を思い返したときに「なんでこんな料理だったんだろう」とか、「ちゃんとわかってなかったのに、あの素材ちょっとよくない調理法してたな」とか、だんだん本当の意味で料理がわかってくるんです。そうして若かりし頃の自分を振り返ると、すごく恥ずかしくなる。

僕はいま46歳。今度こそ、10年後にいまの自分の料理を思い返したとき、恥ずかしくないものをつくろうって。そう思いながら毎日やっています。

お客様と向き合い、食材と向き合い続けること。そんな毎日が、10年後の自分のスタイルにつながると信じている。

撮影 / 佐藤 顕子 取材・文 / 仲山 今日子 2022.7.11

味わいたい至極の逸品

『カブのコンソメ』

季節を通して提供する料理。水と、すりおろしたカブ、そしてごく少量の塩を加えるだけで、その味を引き出す。春夏は青い香りやほろ苦さが、秋冬は聖護院大根を使うので甘みが出てくるなど、季節をそのまま映した料理。直接、口を器につけた方が味も香りも感じられることから、「カマチ陶舗」に依頼してつくった特別な器でいただく。搾りかすは片栗粉と混ぜて、もっちりとしたフリットとしてむだなく、おいしく。自家製の豆味噌と、パティシエ時代の技が生きるアーモンドプラリネを混ぜたアーモンド味噌にマリーゴールドの花と葉を添えて。

宮﨑 慎太郎

1975年、千葉県生まれ。東京の調理師学校を卒業、洋菓子店での修業ののち【ル ブルギニオン】【ヴァンピックル】【オーグー ドゥ ジュール】を経て、2005年渡仏、星付き店を中心に2年間キャリアを重ねる。帰国後【オーグードゥジュール ヌーヴェルエール】シェフとして7年間、【アジュール フォーティーファイブ】シェフとして6年間、合計13年間連続で一つ星の評価を受ける。21年10月、【アマラントス】開店。
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アマラントス

電話番号:03-5797-8585
住所:東京都港区赤坂2-18-5 FUN ART AKASAKA 2F
平均予算:【ディナー】 20,000円 【ランチ】 15,000円
営業:【火~金】 ディナー 17:45~00:00 ※コースは20:30まで。以降はアラカルト 【土・祝】 ランチ 12:00~13:00 ※コースは20:30まで。以降はアラカルト 【土・祝】 ディナー 18:30~00:00 ※コースは20:30まで。以降はアラカルト
定休日:不定休
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